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この記事の目次
関羽を討つ呂蒙
呂蒙は名将関羽を討つために策を練りました。先ずは自分の任地から病気のふりをして離れます。そうすると関羽は呂蒙への警戒を解き、魏との前線へと兵を集中させました。
そして呂蒙は関羽の領地を急襲し、占領します。そこでは乱暴狼藉を禁じ、民に善政をもって接しました。また、関羽からの詰問の使者も手厚くもてなし、関羽の留守部隊が良い暮らしをしていることを見せました。
関羽の部下たちはすっかり戦意を失い、撤退してきた関羽も部下に裏切られ、ついには捕えられ斬られることになってしまったのです。
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呂蒙死亡、三国志演義での壮絶な最期
関羽を討った数か月後、呂蒙は病気で亡くなります。しかし、小説である「三国志演義」ではヒーローである関羽を討った悪役の呂蒙に対し、壮絶な死亡シーンを演出しています。
関羽を討ち、荊州を奪取した後、孫権は祝宴を開きました。孫権は呂蒙に杯を取らせます。すると呂蒙は杯を投げつけ孫権を睨めつけ「碧眼の小児、紫髭の賊め、思い上がるな!」と突然孫権を罵ります。そして押さえつけようとする群臣を踏みつけ、孫権がいる上座を奪います。
さらに何かに取りつかれたような目で「我、命を失おうとも、その霊は蜀軍の元にあり。必ず呉を滅ぼす。我は関羽なり!」と吠えます。そして呂蒙は全身の穴から血を噴出して死亡してしまうのです。
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呂蒙の死は史実と小説では全然違う!
小説では周囲に迷惑をかけつつ死亡した呂蒙ですが、史実では違います。呂蒙が病に伏せると、孫権は大変に心配します。
孫権は呂蒙を内殿(孫権の邸宅)に寝かせ、「呂蒙の病を治せるものには千金を与える」と布告しました。
また、呂蒙の容態が少しでも良くなると大喜びし、悪くなると夜も眠れなくなったといいます。そして孫権自身が呂蒙の病床に付き添ったのです。しかし、その甲斐なく、呂蒙は亡くなります。
孫権は音楽を禁じ、食事も粗末なものにして喪に服したといいます。
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三国志ライターみうらの独り言
いくら物語を盛り上げるためと言え、呂蒙の死にざまはあんまりではないでしょうか。
「敵役には悲惨な死を」エンタメでは今でも続くパターンですね。
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