呂蒙の死因は?ホラー映画のような死を遂げた呉の偉人を考察

2019年8月13日


 

呂蒙

 

呂蒙(りょもう)は呉(222年~280年)の将軍です。後漢の建安24年(219年)に亡くなっているので、正確には後漢末期の将軍が正しいでしょう。今回は呂蒙の死因について、正史『三国志』と小説『三国志演義』の両方から検証していきたいと思います。

 

※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂蒙って何者?

朱然に後を引き継ぐ呂蒙

 

まず、呂蒙について知らない読者の皆様もいると思われますので簡単に説明していきます。

 

「晃、お前に言われなくて知っている。眼帯を付けているメイド服の可愛い女の子だろう」

いや、それは『一騎当千』の呂蒙・・・・・・

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

マンガと史実が混ざっている読者の皆様がいるので、やっぱり丁寧に解説します。呂蒙は孫権(そんけん)の兄の孫策(ふんさく)の時から仕えた将軍であり、若い時は勉強もしないで戦だけしていたので母親を困らせていたようです。

 

要するに、ゴリゴリのモーレツ軍人で脳筋男。呂蒙があまりにも勉強しないので孫権が、「少しは勉強したら」と言いました。ところが、主君のありがたい言葉に対して呂蒙は「勉強するヒマがありません」と返答します。こんなの1人はいますよね、読者の皆様の学校や職場にも。

 

何か理由を付けてはサボろうとする人間が・・・・・・

でも、孫権はめげずに説得を続けます。

 

「別に学者みたいに勉強しろと言っているんじゃないんだよ。ただ、ほんの少し本を読む程度でいいんだよ。私も忙しい中で色々な本を読んで大いに利益になることがあった・・・・・・」

 

というわけで、説得された呂蒙は早速勉強スタート。

 

魯粛

 

時は流れて建安15年(210年)に軍の責任者である周瑜(しゅうゆ)が亡くなり、魯粛(ろしゅく)が後任となります。魯粛が軍の様子を見にいくと、呂蒙は以前とは全く違っており文武両道の天才でした。

 

以前と天と地の差だったので、魯粛はすごく感動しました。ただし、呂蒙は子供の時から学問をしていたわけではないので、「筆記」は出来ませんでした。

 

 

 



呂蒙死す1 突然の病死

魯粛、孫権、孔明

 

建安22年(217年)に魯粛が亡くなり、呂蒙が軍の責任者になります。魯粛の死後、孫権が早速手をつけたのは荊州問題です。孫権は蜀(221年~263年)の劉備と以前から荊州をめぐって争っていました。

 

劉備、孫権、魯粛

 

どうしても武力で解決したかった孫権ですが、魯粛が許しません。魯粛存命中の間は平和的に交渉が行われました。しかし、魯粛も亡くなったので孫権は武力で解決することに決定。

 

関羽の呪いで殺される呂蒙

 

建安24年(219年)に孫権は(220年~265年)の曹操(そうそう)と秘密条約を結び荊州を攻撃しました。荊州の責任者である関羽(かんう)は油断して、呉と魏の連合軍により討たれました。呂蒙はこの時に、呉のナンバーワンの功労者となります。

 

やったね呂蒙!

 

・・・・・・と言いたいところですが、同年には亡くなりました。

 

正史『三国志』の記述は、すごくあっさりとしており、なぜ呂蒙が突然亡くなったのか詳細には記されていません。筆者の推測の域ですが、過労死だったのではないのかと思います。

 

 

呂蒙死す2 ホラー映画レベルの死に方

 

こちらは小説『三国志演義』の呂蒙の死因。関羽を討った後に呉では宴会が開かれますが、そこで呂蒙の様子がおかしくなります。呂蒙は突然、孫権に襲い掛かると「孫権・・・・・・俺は関羽だ・・・・・・貴様に討たれるとは無念だ」と叫びます。

 

次の瞬間、呂蒙の全身から血がドバっと噴き出て、呂蒙はそのまま死にました。

 

「これは三流のホラー映画か?」

 

読者の皆様の言いたい意味は分かりますが、書いていたので仕方ないです。ちなみにマンガ家の横山光輝(よこやまみつてる)氏は、この話を省いていました。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が正史『三国志』と小説『三国志演義』から見た呂蒙の死因でした。呂蒙は努力をして成りあがったので筆者は割と好きなキャラクターです。ちなみに、『横山光輝 三国志』では最初はしゃべりもしないモブキャラなのに、関羽討伐の時期になると、いきなりペラペラとしゃべるキャラに変身します。

 

ある意味不気味です・・・・・・

 

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英雄の死因

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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