三国志のゲームにおいて武力100の最強武将とされている呂布。この設定は正史三国志でもある程度真実で曹瞞伝には「人中の呂布、馬中の赤兎」という有名な言葉が出てきます。
しかし、その割に正史の呂布を見てみると敗走しているケースも多くあります。果たして呂布は本当に最強なんでしょうか?
正史三国志の呂布の敗北
では、正史の呂布伝における呂布の代表的敗北を見てみます。
192年 | 長安に攻め上って来た李傕・郭汜の軍に敗れ董卓の首を持って敗走 |
195年 | 陳宮の策謀で兗州を陥れ曹操と百日余り激闘した後、糧食が尽きて敗走 |
197年 | 徐州牧となり莒の臧霸を攻めるが籠城された為に勝てず退却 |
199年 | 本拠地の下邳を曹操の大軍に包囲されて補給を断たれ降伏 |
このように、武力100にしては、結構負けている事が分かります。
それなのにどうして呂布は最強の呼び声が高いのでしょうか?
以降では、呂布が時々敗北している本当の理由について考えてみましょう。
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呂布は騎兵であり大敗できない
呂布の強さを考える時には、呂布が劉備や曹操とは根本的に違う存在であった事を考慮にいれないといけません。呂布は赤兎馬を自在に操る并州出身の騎兵であり、その配下もまた騎兵でした。
当時の中国において騎兵は貴重な存在であり、徴兵したからと言って集まるようなものではなく、大量に失ってしまえば補充がききません。
劉備のような歩兵主体の傭兵なら壊滅しようと劉備さえ無事なら、また徴兵して編制し直すのも難しくありませんが、呂布の場合はそうはいかないのです。
つまり、呂布は戦いに勝つばかりではなく、騎兵の損耗にも注意を払い、勝算の薄い戦いには、さっさと見切りをつけて騎兵を温存する必要がありました。面子の為に無駄な消耗を招くのは呂布にはナンセンスだったのです。
その点を留意して呂布の敗北を見ると、長安においては李傕・郭汜の騎兵が圧倒的に多く、虎の子の騎兵が壊滅するのを恐れての敗走ですし、曹操と兗州を争った時には糧食が切れ補給が続かないので敗走しています。
また、臧霸との戦いは籠城戦で騎兵が役立たないので見切りをつけて退却していて、呂布が騎兵を活かせない戦いや食糧を絶たれた状態では、簡単に敗走する様子が分かります。
これらは計画的敗走であり、敵に全く歯が立たないのとは違うと言えるでしょう。仮に勝利できても、味方が大勢死ぬような勝利は、呂布に取って損害が軽微な敗北よりも性質が悪いのです。
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呂布の勝ちパターン
では、今度は敗走パターンとは逆に呂布の勝ちパターンを見てみましょう。
193年 | 黒山賊、張燕の陣に配下の成廉・魏越を伴い連日突撃、黒山賊壊滅 |
194年 | 兗州攻防戦初期、濮陽城から出て来た夏侯惇の軍を騎兵で撃破 |
194年 | 曹操が青州兵を率いて濮陽を攻めたのを騎兵で迎え撃ち壊滅させる |
195年 | 劉備が下ヒを出て袁術と戦った隙に下ヒを奪いとり独立 |
197年 | 陳珪の策に従い、袁術軍の韓暹と楊奉を寝返らせ袁術軍を挟撃撃破 |
こうして見ると呂布の勝ちパターンは敵を平地で襲撃して撃ち破るか、敵が本拠地を空けている隙に拠点を奪い、糧食を確保した上で迎撃して狙い撃ちが多い事が分かります。特に黒山賊は歩兵万人、騎兵は数千もあったそうですが、呂布の鍛えた并州騎兵には為す術がなかったようです。
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呂布は最強だが勝ちパターンの狭さに泣いた
呂布は平地で騎兵を駆使しての戦いでは、長安で同じく李傕・郭汜の大軍に敗れた以外、無敗で、勝率はかなり高いと言えます。
曹操は最凶の悪名高い青州兵を呂布の騎兵により撃破され、百万を号した黒山賊は呂布の一撃で崩壊に追い込まれました。その意味で騎兵を自在に扱う呂布は、最強武将に位置付けてもいいでしょう。
しかし同時に騎兵は活用できる場面がかなり限定される存在であり、また失うと補充する事が難しい兵種であり、維持にもコストが掛かります。
袁紹や袁術の下で居候した呂布が部下に略奪を許して両者の顰蹙を買い、逃げていく事になった事実は騎兵に掛かるコストのバカ高さを物語っているとも言えます。并州騎兵には略奪が習い性であり、呂布であろうと制止は難しかったのでしょう。
同じ事は董卓が洛陽や長安で、配下の李傕や郭汜の略奪を咎める様子がなかった事に当てはまります。呂布は最強騎兵を率いたものの、毎回勝ちパターンを見つける事が出来ず、同時に常に騎兵が活躍できる局面を産み出す戦略的頭脳が欠如していた為に、敗北を繰り返し最強と呼ばれる割に負けが多い武将になったと考えられるのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
歴史において、たらればは空しいですが、敢えて呂布に助言するのであれば、参謀の陳宮の進言を素直に受け入れ、中華最強の騎兵を最も価値のある戦いに投資すべきだったと言えるでしょう。
それが出来れば、曹操であろうと呂布の騎兵を簡単に打ち砕く事が出来ず、呂布は徐州を温存しつつ、袁術から分離した孫策と手を結ぶなどして、曹操を苦しめる事が可能だったかも知れません。
参考文献:正史三国志
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