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屯田についての建策を行う
当時の魏は呉を滅ぼすことが第一の目標でした。その前線である寿春地域に鄧艾は派遣されることになります。そこを視察した鄧艾は司馬懿に提案をします。
広い土地があり、良質の田があるのに、水が少ない、よって運河を建設して水を確保すること。兵士を屯田させ、食料および兵力を確保すること(軍屯)。この2つを司馬懿に提案をしたのです。
屯田については「数万人を屯田させ、10分の2ずつを交代して休ませる」ことを提案しました。これによって兵士を年中フル活用し、食料生産を行う事が出来るのです。今でいう「シフト制」ですね。
これらの提案のほとんどを司馬懿は受け入れ、実行に移していきます。実際に運河は完成し、屯田も実行されました。これにより食料生産の増大のみならず、兵士、食料の輸送も容易となり呉と戦う準備が整ったのです。
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出世しても農耕の必要性を説く
のちに鄧艾は数々の戦で功績をあげ、将軍として出世していくことになるのです。しかし、農業についてはいつも頭にあったようです。後に州の長官に任命されることになるのですが、そこでも皇帝に進言をします。「国家のもっとも重要な課題は軍事と農事です。
確かに軍が強ければ戦には勝てますが、孔子も『食足りて兵足る』と述べておりました。食料を蓄え、民を豊かにしたものにこそ、恩賞を与えるべきでしょう。」と。
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三国志ライターみうらの独り言
鄧艾は無理やり移住させられ、嫌な体験もしたのでしょうが、その体験が後々屯田など農の政策に役に立っていたのですね。経験は無駄にならない、そんなことも教えてくれる鄧艾でした。
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