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この記事の目次
曹操は孫権を囮にするつもりだった
曹操は樊城と襄陽を救援するにあたり、漢中での消耗もあることから関羽との直接対決はできるだけ避けたかったはず。ひとまず徐晃を宛に派遣して兵を補充させ、その上で牽制をさせる予定でした。
ただ、関羽に恐れをなしていた曹操はうっかり遷都を口走り、そこで蒋済や司馬懿が孫権を利用する作戦を提案されます。曹操はこれを採用すると同時に火中の栗を孫権に拾わせるプラスαの策を考えました。
それは孫権を囮にするというもの。関羽と戦って損害を出したくないのは孫権も同じなので、呂蒙の代わりに陸遜を派遣して油断をさせるなど秘密裏に動いていたわけですが、曹操は孫権軍の動向を関羽側に流そうとしたのです。
そうなれば関羽は包囲を解いて南へと戻っていくので、無傷で城を救援できます。ついでに孫権との同盟で防備が不要となった合肥から張遼を呼び寄せ、徐晃も包囲の近くに配置することで、樊城や襄陽を攻略するのは容易ではないと関羽に無言のプレッシャーをかける目的がありました。
徐晃の躍進は曹操にとっての嬉しい誤算
そのため、曹操としては救援には向かってほしいが、戦闘は始めてほしくなかったわけです。恐らく曹操はそのあたりの詳細を伝えないまま命令を発し、張遼はそれを汲み取って行動したので労をねぎらわれたと考えられます。
徐晃に対しては援軍の到着を待ってから一斉に攻めるようにと命令を下していたわけですが、徐晃は着陣早々に敵の背後を攻める素振りを見せるなど独自に行動を起こします。ただ、それが功を奏して敵は逃走。関羽の包囲陣にも迫ったことで、曹操は作戦を変えて徐晃に追加の援軍を送りました。
結果的に徐晃は関羽軍を完全に敗走させ、城の救援にも成功しました。その後、曹操が徐晃をこれでもかという程に称賛しているのは、曹操にとって嬉しい誤算が起きたからであると筆者は考えます。
三国志ライターTKのひとりごと
徐晃は最後に関羽と対峙した際に遠巻きに雑談をしたと言われていますが、最後は「関羽の首を獲ったら大きな報奨が得られる」と兵を焚き付け戦闘を始めています。
徐晃もまた張遼、関羽と同様に義理よりも君主との忠誠を大切にした人物でした。友人に負かされて死を迎えるというのはポジティブな話ではありませんが、同じ志を持つ人物に敗れたというのは関羽にとって不幸中の幸いだったのかもしれません。
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