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郭馬の乱でチャンス到来
ようやく晋がMr.クリティカル禿髪樹機能を葬り去った頃、呉では合浦太守修允の部曲長・郭馬が呉に対して反乱を起こしました。郭馬は、広州督の虞授、南海太守劉略を攻め滅ぼすと、自分の部下を刺史や太守に任命し、独立国のような様相を呈し、その影響は交州・広州の各地に波及しました。
孫晧は、滕脩に討伐を命じ1万の兵を与えて東道から郭馬の征伐に向かわせますが、滕脩は始興で郭馬の部将王族に進軍を阻まれて膠着状態になり、郭馬の勢力は拡大します。
孫晧はさらに、徐陵督の陶濬と交州牧の陶?に配下の軍と合浦・鬱林の諸郡兵士を率いて、郭馬を討つ事を命じ交州に進軍させました。
こうして、呉の中央から兵力が出払った隙を見て、杜預が今こそ千載一遇のチャンスと言って司馬炎を説き伏せて、ようやく司馬炎は呉討伐の軍勢を起こしたのです。孫晧は郭馬の反乱が鎮圧できない間に、晋にも攻められ滅亡は必死の状態に追い込まれていきました。
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呉を滅ぼさない方が良かった?
西暦280年に呉を滅ぼすと、いよいよ心配事がなくなった司馬炎がボンクラ皇帝へと転落していく事になります。
司馬炎は軍隊の規模を縮小し、農業に従事する人口を増やし占田や課田法を制定して、人民に土地を分け与えるなど善政を敷いていますが、後宮に1万人もの美女を入れて享楽三昧の日々を送るなど、桁外れの贅沢をして晋の国力を衰えさせていきます。
さらには、呉が滅んだ事で外敵の脅威がなくなり、2代目皇帝は暗愚な司馬衷でもいいやとなった可能性もあり、それらを考えると、呉はもう少し維持された方が司馬炎の堕落を防止するためには良かったかも知れません。
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三国志ライターkawausoの独り言
色々見てみると司馬炎は、なんとしても自分の代で呉を滅亡させると考えていたのではなく、群臣が賛成してくれて、呉が混乱しているタイミングであわよくば位に緩く構えていたような感じがします。
司馬炎の気がかりは、呉ではなく、涼州の鮮卑族や并州に攻め込んできた匈奴であり、もし、これらの反乱がもっと長引いていたら、司馬炎の呉放置プレイは、もっと長く続いたのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志
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