皆さん大好き三国志の時代、数多の名将たちが現れ、星々の煌めきの如く輝き、そして消えていった時代。そんな時代にも終焉が訪れ、次にやってくるのが晋。
しかし晋王朝と言っても具体的にはどこからどこまでか分からない……という方のために、今回は晋王朝について、それも西晋について、できるだけかみ砕いて説明していきたいと思います。この時代を知ることでより三国志の世界を楽しむことができるので、この機会にぜひ晋王朝を知っていって下さいね。
この記事の目次
晋王朝とは
晋王朝と一言で言っても、実は晋王朝と呼ばれる王朝は中国史にいくつかあります。今回は司馬炎によって建てられた晋王朝のお話をしますが、この晋にも265年から316年の西晋。そして317年から419年の東晋と呼ばれる時代があるのです。
ここでは西晋、と呼ばれる時代についてお話していくとしましょう。
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司馬炎が西晋を建国
前述したように晋を建てたのは司馬炎。司馬懿の孫であり、司馬昭の息子に当たる人物です。265年に司馬炎が魏皇帝から位を禅譲されて建てられた王朝であり、三国時代を終わらせたことで有名な王朝です。司馬炎は武帝と諡名されたので、武帝とも呼ばれます。
この武帝が真っ先に行ったのが、司馬一族から27人を汝南、成都、楚などの国々の王に就かせたことです。これは魏という国を反面教師に、一族による権力集中を目指したものですが、後々これによって晋という国は弱体化していくこととなりました。
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九品官人法が機能しなくなる
魏では九品官人法という人材登用法が行われていました。
これは地方で能力のある人物に一から九まで「品」という評価を付け、優秀な人物を中央に推薦していくというシステムで、中央から離れた場所であっても優秀な人物を見逃さず、昇進させていくシステムです。
しかしこの晋の時代にあって、この人材登用は本来の目的とはかけ離れた状態にありました。
九品官人法が長く続いてしまったこの時代では「優秀な一族から優秀な者が出る」として評価は個人の能力ではなく、その一族であるかどうかで評価が決定されるようになっていたのです。
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昇進できない豪族が地方に割拠
良い家に生まれれば高い評価を受け、その一族は栄える。逆を言えばどれだけ優秀な人物であっても、認められた一族でなければ評価されないまま。これは貧富の格差を生み、地方に力を持った貴族を生むことになりました。この力を持ち過ぎた貴族たちは後の世まで政治に影響を及ぼすことになります。
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統一後バカになった司馬炎
武帝は最終的に呉を降し、天下統一を成し遂げます。
しかしこの天下統一を成し遂げたことで気が抜けてしまったのか、武帝は政治に真面目に取り組むことがなくなり、巨大な後宮を作ったり、酒浸りの生活をおくるようになってしまいます。これは分かりやすい傾国フラグ。
またその一方で周囲に対して疑心暗鬼になり、以前は後継者としても考えていた弟の司馬攸を排除しようとしたり、叔父にあたる司馬亮の謀反を疑うなど、一族に権力を集中させたにもかかわらず、その一族での争いの種が生まれていくようになってしまっていたのです。
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