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諸葛亮の異民族融和政策
関羽を評価するという形で救いの手を差し伸べた諸葛亮ですが、もともと劉備に天下三分の計を授けた際に「西は諸戎と和をなし、南は夷越を慰撫し」と言っています。
諸葛亮の戦略の中には最初から異民族と協力し合うことが前提としてあったわけです。馬超の降伏は諸葛亮も予期していなかったかもしれませんが、これを上手く利用し、関羽を褒めることで荊州南部の越賊を牽制した可能性があります。
実際に記録がないので詳細はわかりませんが、もしかすると関羽の名声に恐れをなして荊州南部の越賊は手が出せなかったのかもしれません。ある意味、関羽の名声を高める手紙を送ったことは、遠方にいる諸葛亮から関羽に対する最大限の支援だったとも言えるのではないでしょうか。
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三国志ライターTKのひとりごと
劉備が漢中王となった際に、関羽は馬超や黄忠と同列にされることを嫌っていますが、これは馬超と同じ位になることでせっかく上げてもらった諸葛亮からの評価が落ちてしまうことを懸念したのかもしれません。
あくまでも関羽の荊州統治と北伐戦略は馬超より上に立つことで成立していたわけですから。
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