関羽の実績が少ない理由は美髯公の性格が最悪だったから?

2019年5月2日


 

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関羽の死

 

関羽(かんう)(しょく)(221年~263年)の将軍です。蜀の建国以前に亡くなっているので、実際は後漢(ごかん)(25年~220年)の将軍が正しいと思います。

 

強くなる関羽

 

さて、この関羽ですけど、存命中(ぞんめいちゅう)にどれほどの実績を挙げたのでしょうか。今回は有名な「美髯公(びぜんこう)」関羽の実績に関して焦点を当ててみましょう。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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関羽の実績1:顔良を斬る

曹操から逃げ回る劉備

 

建安(けんあん)5年(200)に劉備(りゅうび)曹操(そうそう)と戦って敗れました。敗れた劉備は妻子を置いて袁紹(えんしょう)のもとに逃げました。

 

関羽が好きすぎる曹操

 

この時に残留していた関羽(かんう)は曹操により捕虜にされました。でも何があったのか分かりませんが、曹操は関羽を殺しませんでした。

また、劉備(りゅうび)の消息が判明したら出て行ってよいと約束しました。

 

関羽に惚れる曹操

 

でも、関羽もタダで出るのは気が引けたのでしょう。実績の1つでも挙げて出ていくことにしました。

 

官渡の戦い 騎馬兵

 

建安(けんあん)5年(200)は、曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)が天下分け目の決戦(官渡の戦い(かんとのたたかい))を行っている最中でした。

 

漢の顔良(がんりょう)

 

袁紹は白馬に顔良(がんりょう)派遣(はけん)しました。

 

張遼 カカロットーーーー!

 

関羽は張遼(ちょうりょう)と一緒に出陣しました。顔良は何を考えているのか、自分の陣地に日差し避けのために天蓋(てんがい)を置きました。

これでは「自分が大将です」と言っているのと同じです。結果は案の定でした。

 

顔良と関羽

 

関羽に目を付けられてしまい、突撃されて一撃で殺されました。

 

顔良を討ち取る関羽

 

余談ですが、顔良(がんりょう)が強いのは『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作であり正史(せいし)ではそれを発揮するシーンはありません。何と言っても天蓋なんて張ってのんびりしているレベルですから、勇猛果敢(ゆうもうかかん)な武将タイプよりも、命令を出す指揮官タイプだったのかもしれません。

 

 

 

関羽の実績2:于禁と龐徳を破る

曹仁

 

建安(けんあん)24年(219年)に関羽は(はん)城の曹仁(そうじん)を攻撃しました。

 

ホウ徳

 

曹操は救援として、于禁(うきん)龐徳(ほうとく)の2人を派遣しました。この時に関羽と龐徳が互角の勝負をしたのは『三国志演義(さんごくしえんぎ)』の創作です。

 

ホウ徳

 

挟み撃ちという不利な状況に陥った関羽ですが、運よく河が氾濫(はんらん)したので于禁と龐徳の軍は壊滅しました。

 

ホウ徳

 

この時の戦いで于禁(うきん)を生け捕り、ホウ徳を斬る実績を挙げました。ただし、これが関羽の最後の実績です。

 

呉の孫権

 

関羽は同年に孫権(そんけん)と曹操の同盟軍により討たれました。

 

樊城の戦い特集

 

 

性格が原因で実績が少ない?

関羽

 

以上が史料に残されている関羽の実績です。びっくりするかもしれませんが、2つしか存在しないのです。なぜこんなに少ないのでしょうか。

 

はじめてのプロ野球 関羽

 

原因の1つは、関羽がずっと荊州(けいしゅう)にいたからです。劉備(りゅうび)劉璋(りゅうしょう)から益州(えきしゅう)を奪取した建安19年(214年)以降、関羽は荊州に残留して統治に専念しています。

 

五虎大将軍の関羽

 

つまり、関羽は荊州の責任者となっていたのです。責任者が簡単に戦場に出るわけにはいきませんからね。

 

羅貫中と関羽

 

もう1つの原因は、関羽の性格ではないかと考えられます。

 

関羽の性格を簡単に表すと次のようになります。

 

(1)下っ端の兵士には優しい

(2)同列の将軍や文官には傲慢(ごうまん)な態度をとる

 

特に(2)が問題です。

 

関羽

 

かつて、馬超(ばちょう)が加入した時に、その存在が気になったので諸葛亮(しょかつりょう)に手紙で尋ねました。

 

考える諸葛亮孔明

 

諸葛亮は関羽のプライドを傷つけない程度に、上手に返信を書きました。喜んだ関羽は、その手紙を来客に見せて自慢していたのです。

 

暴れる関羽

 

また、黄忠(こうちゅう)が関羽と同列する人事の話をした時は、ガチ切れした話も残っています。

 

「アホの基本は、見栄っ張りだよな」

・・・・・・『闇金ウシジマくん』のセリフです。ちょっと古くて分からなかったですか。

 

本当にこのセリフと一緒です。

 

関羽に見惚れる赤兎馬

 

関羽の性格は見栄っ張りです。下っ端の部下にだけ外面良くて、同僚の間では評判が最悪というタイプです。読者の皆さんの学校や会社にも1人はいると思われます。

 

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

おそらく、劉備と諸葛亮は関羽の性格を知っていたので、あまり実績を挙げさせなかったのだと思います。だって挙げれば調子に乗るし、同僚は馬鹿にするはずですから・・・・・・

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上、関羽の実績についての記事でした。

関羽ファンにとっては、最悪の記事ですが、そこはお許しください。

 

※参考

三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)

 

関連記事:関羽と張飛はどんな出会い方をしたの?正史三国志と三国演義を比較してみた

関連記事:関羽千里行が可能だったのはカバだから?カバは身体能力的に赤兎馬たりうるか?【HMR】

 

はじめての列子

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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