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曹操と司馬防の関係
因みに曹操と司馬懿の父、司馬防には古くからの付き合いがあります。司馬防は若き日の曹操を推挙したということがあり、曹操はこれを恩に思っていたのか、魏王になった際に司馬防を招いて、一緒に飲食を楽しんだという話があるのです。
この経緯を考えると、曹操は司馬懿はともかくとしても、司馬防に対して恩義を感じていたからこそ、その息子たちを招集したのではないかと考えられます。
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父と兄
さて曹操は年齢を重ねてからも司馬防と交流があり、その息子である司馬朗は曹操の元で順調に出世していきました。もちろん曹操がただ恩人の息子を贔屓したということはなく、司馬朗自身の才覚も大きく影響しているでしょう。ですがこれらの記録から考えて、司馬懿一人が曹操から逃げ回ったというのは中々考えづらいことでしょう。
しかし実際にこの「曹操の誘いを断った」という逸話はどこから生まれたのか?
個人的には曹操の出自も関係しているのでは、と思います。
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司馬懿の性格
さて宣帝紀によれば司馬懿は元々苛烈な性格らしく、名門の出身。また当時としては曹操は宦官の家の子です。
若い頃の司馬懿はその苛烈な性格が良く出ており、それこそ触れれば切れるかのような性格をしていた……しかも名門という誇りもあって、そこに曹操からの出仕の話が来れば「誰が行くか!」と反抗したんじゃないでしょうか。
ともあれその後(七年くらい)引きこもってから「いや、やっぱそろそろちゃんと働こう……」となったのが、逸話として変形したのではないかな?というのが筆者の考察です。
それが後々の歴史も相まって色々な解釈が生まれたと思うのですが、皆様はどう思いますか?
小さな逸話ですが、ぜひちょっと目を止めて考えてみて下さいね。
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三国志ライター センのひとりごと
三国志には様々な逸話が出てきます。そしてその逸話が別の逸話と繋がることもあれば、差異が生まれることもあります。しかしそこで「つまりどっちかが間違いだ!」ではなく、どうして差異が生まれたのか考えるのはとても楽しいですね。
ぜひ読者の方々も、小さな逸話にも目を向け、三国志をより楽しんでいきましょう……どぼん!
参考文献:晋書宣帝紀 魏書武帝紀 曹洪伝 魏略
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