【軍師連盟】司馬懿は曹操の仕官の誘いを何で断わったの?

2016年10月9日


 

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曹仁 曹操

 

考廉(こうれん)にあげられていた頃の若き曹操(そうそう)を表舞台に引き上げた人物がいます。

当時、尚書右丞の任に就いていた司馬防(しばぼう)です。

司馬防は、名家の司馬氏の生まれで、洛陽の県令などを歴任しました。

 

司馬朗 司馬防

 

優秀であり、かつ非情に厳格な人物だったと伝わっています。

その司馬防が才能を認めたのがまだ名の知られていなかった曹操なのです。

その点において司馬防は曹操の恩人ともいえます。

魏王にのぼり当時の最高権力者であった曹操は、

都である鄴に司馬防を呼んでもてなしたとも云われています。

これは曹操なりの恩返しのひとつだったのでしょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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今度は曹操が司馬防の息子を引き上げる

司馬朗 曹操

 

司馬防の長男は司馬朗(しばろう)です。

董卓が洛陽を占拠した際、父親である司馬防から一族を率いて郷里に帰るように指示されます。

董卓に捕まり引きずり出されるところまでいくものの、

司馬朗の機知により司馬一族は郷里に帰ることができました。

田舎に戻った司馬朗を再び日の当たる政治の場に引き上げたのが曹操です。

ちょうど曹操が、長安から落ち延びてきた献帝を保護し、許に遷都した年になります。

自分を引き上げてくれた司馬防に対する恩返しのひとつだったのかもしれません。

司馬朗は一時、病気によって郷里に戻りますが、

回復してからまた中央に呼び戻され、

曹操の重要拠点である兗州の刺史となって民に慕われる政治を行いました。

 

司馬八達

司馬朗

 

実は司馬防には優秀な息子が八人もいました。

長男の司馬朗の字は伯達といいますが、

みな「達」が付く字を持っていたため「司馬八達」と呼ばれることになります。

司馬朗の友人で崔琰という人物がいます。

彼は袁紹(えんしょう)に仕えていましたが、袁紹が亡くなってからは曹操に仕え、

人事部門で辣腕を振るうことになります。

崔琰(さいえん)に見いだされたものはどんなに

評価が低いものであっても三公まで登りつめたと云われています。

無論、崔琰は友人である司馬朗の力を非常に認めていましたが、

一方でこのようなことも司馬朗に云っていました。

「キミの才能は弟の司馬懿には遠く及ばない」と。

司馬朗もそのことを自覚していたのか笑ってうなずいていたそうです。

それが「軍師連盟」の主役である司馬懿です。

そんな司馬懿を人材発掘・起用の神とも呼べる曹操が見逃すはずがありません。

崔琰の話を聞く以前から曹操は司馬懿に目をつけていて、出仕の命令を下しています。

 

遠望の志

司馬懿と曹操

 

「軍師連盟」の主役とある司馬懿

その才能をもってすれば政治家になることはたやすいことでした。

彼自身が名門の生まれであって、さらに権力者である曹操との強力なコネもあります。

しかしなぜか司馬懿はなかなか表舞台に登場しません。彼がそれを拒んだからです。

兄の司馬朗が曹操の率いる漢室に仕えたのに対して、司馬懿は自粛しました。

なぜでしょうか。

それは曹操の権威が一時的なものに過ぎないと見られていたからです。

 

袁紹の妃03 袁紹

 

献帝を保護し、朝廷の実権を曹操が握ったとはいえ、北には強国の袁紹がいたのです。

曹操と袁紹の決戦は避けては通れぬものとなっていました。

当時の大多数の人間が袁紹の勝利を疑わなかったことでしょう。

袁紹は広大な河北の領土と膨大な兵力、そして中華一の名声を誇っていたからです。

いずれにせよ漢室が滅ぶと考えた司馬懿はいたずらに仕えることをしませんでした。

かといって袁紹に仕えることもしません。勝つものを見極める。

司馬懿はそんな冷静沈着な心境だったことでしょう。

 

曹操に仕える司馬懿

司馬懿 仲達

 

結局、勝者は大逆転劇を演じた曹操でした。

西暦201年、袁紹との官渡の戦いを制した曹操に司馬懿は出仕を求められます。

これにはさすがに司馬懿も断り切れなくなりました。

しかし当時はまだ官渡の戦いに曹操が奇跡的に勝っただけで、

河北は袁紹が握っていましたし、袁紹自体も健在でした。

袁紹の巻き返しの目は充分にあったのです。

慎重な司馬懿は病のふりをしてこの出仕の命令に従いませんでした。

逃げて袁紹につくようなら殺せとまで部下に命じていた曹操ですが、

病と聞いてここは無理強いはしません。

西暦208年、袁氏はことごとく滅ぼされ、河北は曹操の領土となります。

大勢は決まったのです。曹操はついに三公を廃し、丞相となります。

曹操に抗える勢力はもはやありませんでした。

慎重な司馬懿も意を決して曹操に仕えることになります。

現実に天下を治められる人物にしか仕えないという「石橋を叩いて渡る」司馬懿。

そしてそれを証明した曹操

あくまでも漢室に仕え、清廉潔白な政治を行った兄の司馬朗と、

絶対なる権威にこそ従った司馬懿の違いがそこにはあります。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

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曹操が司馬懿を強く警戒したのは、

司馬懿には忠義の心がないことを見抜いていたからでしょう。

そこには将来を見越した冷静な計算があるだけです。

そして司馬懿は自分の思い描く計画を実行に移す忍耐強さと慎重さを兼ね備えていました。

「軍師連盟」にはその部分が強く描かれることになると思います。

恩人の息子とはいえ、ここまで出仕を拒んだ司馬懿に曹操は

他の人間にはないものを感じ取っていたのでしょう。

司馬懿の才能と冷酷さがやがて曹氏を脅かす存在になることを曹操は認識していたと思います。

しかし司馬懿は曹操の前では上手く立ち回り、なるべく目立たなくふるまい、

太子となる曹丕との友情を深め、己が立場を慎重に有利なものにしていくのでした。

結論として司馬懿は名声や才能、人徳に惹かれて仕えることはなく、

絶対的に安定した強者にのみ従うということがいえるのではないでしょうか。

だからこそ、それが証明できるまで司馬懿は曹操に仕えなかったのです。

 

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