孫晧の死体損壊癖は本当だった?

2021年5月28日


 

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孫晧(孫皓)

 

呉のラストエンペラー孫晧(そんこう)。正史三国志では暴君として知られ、些細(ささい)な罪で人を殺したり、酒が飲めない部下に吐くまで飲酒を強要したり、アル中ヒゲダルマの負の部分をもっと濃くした印象です。

 

そんな孫晧のドン引き逸話としては、部下の目をくりぬき、顔の皮を剥いだという死体損壊癖(したいそんかいへき)があります。ただ、古今東西、滅びた国の君主は悪く書かれるものですから、孫晧もそうだったのではないか?と思いきや、どっこい、それは本当だったようです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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晋書武帝紀の記述

普に降参する孫皓

 

孫晧の残虐な刑罰については、晋書武帝紀において詳細が出てきます。

 

晋に降伏して帰命侯(きめいこう)となった孫晧は、司馬炎の大宴会に招かれてのこのことやってきました。司馬炎は上機嫌で「朕はこの座席を設けて君を長らく待っていた」と言いますが、孫晧は「私も南方で座席を開けて陛下を待っていたのです」と言い返しました。

 

司馬炎は笑っていましたが、賈充(かじゅう)はこの暴君めに恥をかかせてやろうと「あなたは南方で人の目をくりぬき、顔の皮を剥いでいたそうだが、何に対する罪だったのか?」と質問します。

 

曹髦の暗殺許可を出す賈充

 

これに対し孫晧は「部下の中で君主を弑逆したものや奸悪で不忠なものがいたので刑を加えたのです」と答え、暗に賈充が主君である曹髦(そうぼう)を殺した大逆人と揶揄(やゆ)し賈充は恥じ入ったとあります。

 

孫晧の機知を捉えたものですが、本当に孫晧は家臣の目をくりぬき、顔の皮を剥いだのでしょうか?

 

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陸抗の上奏文

孫皓に対して戒めの手紙を書く陸抗(りくこう)

 

実は、孫晧の死体損壊癖は陸遜の子の陸抗の上疏文に登場します。陸抗は、孫晧が武昌左部督(ぶしょうさぶとく)薛瑩(せつえい)を呼び寄せて投獄したと聞くと助命を()い、君子の道に外れた振る舞いは止めるようにと孫晧に抗議します。

 

この一文の中に孫晧の死体損壊癖について出てくるのです。

 


 

賢人とは国家にとって掛け替えのない存在です。古くは、大司農(だいしのう・)楼玄(ろうげん)散騎中常侍(さんきちゅうじょうじ・)王蕃(おうばん)少府(しょうふ・)李勖(りきょく)はみな賢人・賢臣でしたが、現在は、皆な罪を被る所となり、ある者は殺され、または一族皆殺しの目に遭いそうでなくても流罪ととなっています。

 

周礼(しゅうらい)」には賢者は避けて赦すとあり、「春秋(しゅんじゅう)」には善を(ゆる)す義があり「書経(しょきょう)」は無実の人を殺すのではなく無法者を少なくせよとあります。

 

泣きながら冤罪を訴えるも処刑される司馬瑋

 

翻って王蕃らは忠臣でありながらいかなる罪か定まらない間に殺されました。誠に痛ましい事です!また、その亡骸を焼いたり腐らせたり、流したり、遺棄(いき)したり砂浜に棄て去るのは、古代の聖王の教えから外れ、古えの甫侯が戒めた事でもあります。

 

百姓は嘆き悲しんで士民は、これからどうなる事かと憂いを同じくしました。どうかせめて生存している楼玄を赦して釈放して下さい。


 

原文は、焚爍流漂(ふんしゃくりゅうひょう)ですが、孫晧が死体を焼き捨て、腐らせ、海に流して漂わせたり、砂浜に遺棄して(はずかし)めるのを止めるように説いています。

 

呉志(呉書)_書類

 

孫晧の伝記には、宮女を殺して死体を宮殿に繋がる川に捨てて流したともあり、孫晧の残酷な死体損壊癖は、必ずしも晋の悪宣伝に過ぎないと断定できないようです。

 

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英雄の死因

 

死体損壊の意味は?

戦死 霊柩車 槥(エイ車)

 

孫晧だけでなく、呉には死体損壊の記述が時々見られます。

 

例えば、呉軍が交州を奪還した時に捕らえた楊稷は、まもなく血を吐いて病死したため、呉では首だけを建業に送り、死体は海へ捨てたと書かれています。ただ、これらの行為を人の死体を損壊して楽しむ習慣と考えるのは誤りです。

 

張譲(宦官)

 

古代中国には死者は、その氏族の子として生まれかわるという考え方があり、その時に、五体が揃っていないと障碍(しょうがい)を背負って生まれてくると考えられていました。宦官(かんがん)でも、死んだ時には切り離したアソコを一緒に埋葬し、次は五体満足で生きられるようにと願いを託したのです。

 

という事は、逆に言えば憎い相手の死体を傷つけてバラバラにすれば、生まれ変われなくなるという事にもなりました。

 

呪われている太史慈

 

この思想が根底にあるので、中国では憎い相手の死体をバラバラにしたり、骨まで砕いて飲んでしまうなどの死体損壊が起きていたのです。

 

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孫晧はみせしめのつもりだった

孫皓と張俊

 

翻って、賈充にどうしてあなたは家臣の目をくりぬき、皮を剥いだのか?と聞かれた時の孫晧の返事を見てみると、主君を殺すような不忠者がいたからだと答えています。

 

つまり、孫晧は個人的な趣味ではなく、皇帝の権威に逆らった最も罪が重い反逆者に報いる手段として、目玉をくりぬいたり、皮を剥いだという事になります。

 

これは、肉体を損壊されたら、五体満足で生まれて来られないという中国の土着の習慣を逆手にとった見せしめであり、孫晧には人の肉体を損壊させて楽しむ趣味は無かったと言う事が出来るのかも知れません。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

暴君とされる孫晧ですが、実際にはその権力は弱く周囲の豪族に振り回され、当人としては恐怖政治で国をまとめるしかない思いつめた面もあるように思います。

 

初期の名君が突如暴君になったと言うより、皇帝による中央集権を志向した結果として、残酷な面がいよいよ強調されるようになったという事ではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志 晋書

 

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呉の武将

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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