民主政の原型はフランス革命ではなく、それよりも2000年以上遡る古代ギリシャであるというのは、少し世界史に詳しい人ならご存知でしょう。ですが、どうして古代ギリシャの民主政が終わってしまったのかについては、うろ覚えになっている方も多いのではないかと思います。
今回は古代ギリシャ民主政の成立から崩壊を分かりやすく解説していきましょう。
この記事の目次
アテネ民主政の始まり
古代ギリシャ最大の都市アテネは成立した当初は、他のポリス同様に王政でした。しかし権力は次第に軍事を担当していた貴族に移り貴族制へと変化しました。
民主政のイメージに似合いませんが、アテネは土地が貧しく資源獲得のため頻繁に戦争を起こして領土を拡大します。それに伴い貨幣経済が発展し都市の平民も富裕になり、政治の権利を求め貴族と度々抗争を繰り返すようになりました。
紀元前7世紀の初めドラコンの立法により初めて法律が成文化され、貴族が恣意的に法律を拡大解釈する事が禁止されて平民の地位が守られるようになり、その後ソロンの改革で平民の没落防止の措置が取られます。
紀元前6世紀中頃には、ペイシストラトスが民衆の人気取りをして僭主制(事実上王政)に回帰しかけますが、クレイステネスが出現して政治改革が進み、紀元前508年に民主政が開始されました。
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市民の政治力を向上させたペルシャ戦争
これまた民主政のイメージに合わないですが、アテネの民主政において市民の発言力を向上させたのは、紀元前480年に起きたペルシャ戦争でした。
この時、アテネは三段櫂船(トリエレス)に200名の乗組員を乗せ合図に合わせて、一気に400本の櫂を漕ぐ戦法で船足が遅いペルシャの軍船を圧倒して勝利します。
サラミスの海戦と呼ばれるこの戦いで櫂を漕いでいたのがアテネ市民であり、勝利の立役者として、貴族の重装騎兵に対抗し政治的な発言力を増加させたのです。
つまり、「ペルシャに勝利したのは俺達市民の力だ!もっと政治的な権利を寄こせ」と市民が要求し貴族が譲歩したのです。
また、当時のアテネ民主政に参加できるのは、18歳以上の男子で兵役についている者だけだったので、彼らは都市が私利私欲で戦争を起こすのを阻止し、自分達の利益と権利を守る事に強い関心がありました。
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民主政の仕組み
アテネ民主政における最高評議会はイセゴリア(民会)と呼ばれブニュクスと呼ばれる丘の上で開催されました。丘は半径120mある扇形の地形で2万人を収容でき、ここで、18歳以上のアテネ男子市民が、月に4回ポリスに関する公の問題について話し合ったのです。
その議題は、外交問題、顕彰、国事犯の弾劾裁判、法の制定、将軍や財務官の選挙、公共事業など多岐にわたっていましたが、月に1回の主要民会では、国土防衛、穀物支給、国事犯の弾劾など、特に重要な問題が話し合われました。
会議の進め方
現代日本では議会と言うと、水ぐらいは飲みますが、食べるのは禁止、アルコールなんてもってのほか、難しい顔をして真面目にしないといけないというイメージがあります。
しかし、古代アテネの民会はそんな堅苦しい事はなく、参加者はコロッセオのような木のベンチに腰掛け、パン、たまねぎ、オリーブの実、ワインを持ち込んで娯楽のように議会を楽しんでいました。
何か発言したいときは、その場で挙手して壇上に上がり、自分の言いたいことを滔々と述べる事が出来ましたが、現在と違い討論という形式は取らなかったようです。
聴衆は意見を聞いて賛成なら挙手し反対なら手を挙げない事で意思表示しますが、挙手の数は議長団が目視で数えて採決し、特別な場合には投票で採否を決定しました。
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強力な共同体意識
アテネの民主政では、市民は自由に発言し投票しましたが、その自由とは近代民主主義の自由とは少し意味が違います。
現在の自由は、社会のありとあらゆる束縛から本質的に人は自由であるという概念ですが、アテネの民主政では、人々は慣習や伝統、家族や友人、階級や身分の影響、個人的な体験や怨恨、偏見、価値、願いや恐れから自由ではありませんでした。
アテネは最盛期には市民だけで6万人もいましたが、それでも日本の市町村レベルであり、ちょうど現在でも、日本の村社会で見えないしがらみが多いように、アテネ市民は、地域の共同体から自由ではなかったのです。
しかし、だからこそ自分が良ければいいではなく、アテネ全体の市民の為に発言し活動すべきであるという強烈な公共意識が育ち、アテネ民主政の基盤を支えていたのです。
ペロポネソス戦争
紀元前480年のペルシャ戦争では、アテネはスパルタと同盟してペルシャを降しますが、その後ペルシャは海軍力を強化し周辺の都市国家を征服したり、安全保障を名目に献金させるなどで強大化していきます。
それに対し、スパルタは警戒心を強め、紀元前431年にはスパルタ陣営とアテネ陣営で、ギリシャを二分したペロポネソス戦争が勃発しました。
当時アテネは有能な将軍ペリクレスの独裁の下、精強で優秀な海軍を利用して、市民全体をアテネの都市内に籠城させ、海軍力を使ってスパルタ陣営の都市を攻撃しようとしましたが、エジプト・リビア、ペルシャ領で大流行していた疫病がアテネにも入って大流行し市民の1/6が死亡、将軍ペリクレスも感染して死亡しました。
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デマゴーグで破滅する民主政
しかし、アテネの強固な城壁と海軍は健在で、スパルタ陣営は講和を申し込みます。ところがペリクレスの死後、適切な指導者を欠いたアテネでは戦況を正確に把握する人材がなく、戦争を継続してスパルタを撃破すべしとする政治家が民衆を扇動して人気を得るようになります。
これをデマゴークと言い代表的な政治家に、クレオンやアルキビアデスがいます。
アテネの民衆はデマゴーグに慣れ、感情だけで瞬間的な判断をするようになり、一度結ばれた和平ニアキスの和約も破棄、政治家の扇動に乗りシケリア遠征のような、補給を無視した無謀な遠征を繰り返して国力をすり減らします。
戦況は次第にスパルタ陣営に有利に傾き、紀元前404年には食料供給を断たれた上にスパルタ軍がアテネを包囲し、ついにアテネは降伏しました。その後、アテネでは何度か民主政が回復しますが、以前の勢力は戻らずマケドニアに征服されて民主政が寡頭政治に移行。
180年続いた民主政の歴史に幕を下ろします。
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デマゴーグが蔓延った理由
では、どうしてペリクレス死後のアテネでデマゴーグが蔓延ったのでしょうか?
大きな理由には、ペリクレス死後の政治家は手工業者のような良い意味では庶民に近く、大きな財産を持たない人々であった事が挙げられます。
ペリクレス以前の政治家は名門出の大地主であり、民衆の支持以外にも基盤とする財産がありましたが、ペリクレス以後の政治家は民衆の支持だけが権力の源泉でした。従ってデマゴーグ政治家は、民衆に嫌われないように、弁舌を振るい、嘘と扇動で大衆に迎合するしかなかったのです。
もうひとつ、クリオンやアルキビアデスのようなデマゴーグは、ペリクレスのような責任ある地位に就きませんでした。その為、言いたい放題しても責任を取る必要がなく、無責任な扇動政治家として延命できたのです。
世界史ライターkawausoの独り言
ペロポネソス戦争初期の指導者ペリクレスは独裁者でしたが、徹底した民主政の擁護者であり、庶民階級の政治家もアテネの政界でのし上がる事が出来ました。
しかし、皮肉な事にペリクレスが死ぬと、民衆の支持以外に政治基盤を持たない庶民階級の政治家は、民衆の関心を繋ぎとめ扇動するためにデマゴーグを多用し、責任も曖昧なままにアテネの政治に影響力を行使し民主政を崩壊に追い込んだのです。
これは、古代アテネだけの問題ではなく、民主主義を採用する国家において起こり得るし、あるいは現在起きている民主主義の病なのです。
参考文献:ゴーマニズム宣言 民主主義という病
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