後漢の末期に発生し杜撰な計画の為に曹操も参加を拒否した霊帝廃位のクーデター合肥侯擁立事件。
はじ三でも特集を組んで事件の関係者を追って見ましたが、今回、読者の月友さんより、そもそも合肥侯擁立事件はでっち上げで冀州刺史の王芬を排除する為に仕組まれたドッキリだったのでは?という話が出てきました。
それは一体、どういう事なのか?月友さんの説を元に、新しくkawausoの考えも入れて解説してみようと思います。
※こちらは推測を楽しむ記事です。そういう考えもあるんだなと受け取って頂けると幸いです。
この記事の目次
合肥侯の正体は霊帝の弟?
合肥侯国は雲台二十八将の22位に位置する左曹の堅鐔が建武6年(西暦30年)に合肥侯になった事から始まり、堅鴻、堅浮、堅雅と4世に渡り約100年統治されます。そして、合肥侯国が廃止されて合肥県になったのは建安5年(西暦200年)の事でした。
堅氏が統治から離れて70年余りは不明ですが、流れ的に後漢劉氏の一門が合肥に封じられたと考えられます。その根拠としては中国版のWEBでは合肥侯について立弟弟 合肥侯とあり、それが霊帝の治世である事から霊帝の弟が合肥侯についたと考えられるようです。
関連記事:霊帝が名君だったら三国志はどうなった?本当に無能だったの?
袁紹と許攸により王芬は嵌められた?
さて、現職の冀州刺史だった王芬がクーデター失敗を受け自殺したのは中平5年(188年)で、翌年には廃するまでもなく霊帝が崩御します。そして、冀州刺史の後釜に入ったのが袁家の故吏だった御史中丞の韓馥でした。
さらに、合肥侯擁立事件では袁紹の奔走の友である許攸が暗躍しています。王芬が自殺後、袁家の故吏である韓馥が後継刺史になり、袁紹の奔走の友である許攸が事件に深く関与しているのは、偶然にしては出来過ぎです。
kawausoは王芬について、どうして袁紹のような中央のパイプを利用しなかったのか?と疑問を呈しましたが、最初から袁紹が王芬を嵌めるつもりだとすれば話は簡単です。
許攸が適当に王芬に口からでまかせのクーデター計画を持ち掛け「私と袁紹は奔走の友ですから、決行の時は任せて下さい」と適当な出鱈目を吹きこんだのかも知れません。
王芬は四世三公の袁家の権勢を知っていますから舞い上がり、もうクーデターは成功したも同然だと油断したとも推測できます。
あるいは合肥侯がクーデターに賛同していると嘘を吹きこんだのも許攸かも…それなら合肥侯も霊帝もクーデター計画を知る事が出来るハズもありません。すべては、許攸の舌先三寸で産み出された虚構に過ぎないのですからね。
関連記事:霊帝は近衛軍創設の為に売官で資金を造った?実は優秀な皇帝の真実
関連記事:劉備が勉強しなかったのは理由があった!
外戚派を増やす為、袁紹は王芬を排除した
では、どうして袁紹はでっち上げのクーデター計画を王芬に信じ込ませて排除しようとしたのでしょうか?
それは当時宮廷で起きていた宦官の十常侍勢力と霊帝の外戚である何進をバックにつけた地方豪族を主とする士大夫勢力の勢力争いがあったためでした。
党錮の禁で地方豪族の勢力を封じ込めていた十常侍ですが、184年の黄巾の乱により地方に押し込められた士大夫階級が黄巾に味方する事を恐れた後漢王朝は党錮の禁を解きます。そこから地方豪族は息を吹き返し、地方官ポストを巡りどちらも少しでも味方を増やそうと必死だったのです。
十常侍は全員が列侯に登り、一族を地方官のポストに就けていて、外戚の何進としては、1人でも多く地方官を味方につけておきたい所でした。
そこで、王芬をでっち上げのクーデター計画で釣り上げ、それが頓挫したと見せかけて自殺に追い込み、後継ポストに腹心の韓馥を置いたという図式です。
関連記事:荀彧の弟は袁紹にとっての荀彧?兄に負けない才を持った荀諶
関連記事:韓馥(かんふく)とはどんな人?三国志一被害妄想が激しく袁紹に怯え自殺してしまった武将
王芬を仲間にしなかった理由は?
しかし、ここで疑問が出てきます。王芬は濁流派ではなく、むしろ宦官に殺害された清流派陳蕃の子の陳逸を仲間に加えている程なので、紛れもなく清流派で袁紹一派と思想的には遠くなさそうです。
にもかかわらず、袁紹が王芬をスカウトしなかったのは、何故なのでしょう?
これはkawausoの推測ですが、恐らく王芬が袁家とは故吏の関係になく土壇場で信頼が置けなかった点、あと1つは身も蓋もない話ながら、スパイで入り込んだ許攸が「王芬はバカなので仲間にしなくていいです」と袁紹に進言したのかも知れません。
王芬の為には否定してあげたい所ですが、実際合肥侯事件では1人で空回りし、唯1人自殺したので、やはり許攸の見立ては正しいと言うしかないかも…刺史まで昇進するので王芬には行政手腕があったのだと思いますが、権謀術数で鳴る許攸が相手ではどうにもなりませんね。
関連記事:許攸とはどんな人?自慢癖が身を滅ぼした官渡決戦のキーマン
関連記事:【中華版聖闘士○矢】集まれ!光武帝と雲台二十八将を全員紹介
曹操はどこまで知っていたのか?
では合肥侯擁立事件を曹操はどこまで知っていたのでしょう?
kawausoの推測では、曹操はでっち上げの裏事情まで知らなかったと思います。知っていれば、後年になって事件を述懐する事はないと思いますし、あれは袁紹や許攸のでっち上げと書きそうなものだからです。
ですので、曹操は袁紹や許攸の謀議には関係しておらず、周旌から持ち掛けられた計画だけを聞いて、こりゃダメだと放り出したのだと思われます。
そして、許攸も曹操には計画を持ち込まなかったと考えられます。もし、許攸がこんな杜撰なクーデター計画を曹操に持ち込んだら、曹操は許攸に幻滅するでしょうし、そうでなければ、ここには何か裏があると勘づくでしょう。
そのため、曹操に計画を持ち込んだのは同じ沛国礁県出身の周旌だったと思います。
関連記事:周旌とはどんな人?曹操をクーデターにスカウトした地元豪族
関連記事:霍光とはどんな人?謙虚なキングメーカー後世の手本となる
三国志ライターkawausoの独り言
kawausoは月友さんの合肥侯擁立事件でっちあげ説に納得しました。そうでなければ、霊帝を廃し新しい皇帝を立てるという大逆事件が、特に調査もなく首謀者1人の自殺で終るとは到底思えないからです。
やはり最初から合肥侯擁立計画など存在せず、許攸が袁紹と示し合わせ、でっち上げた架空の計画で、王芬と数名のシンパだけが騙され踊らされて自滅したと考える方が自然に思えます。だとしたら、ひでー話ではありますけど説得力がありませんか?
もちろんこれは仮説なので、私はこう思うという読者の方がいれば、そちらも取り上げてみたいと思います。
関連記事:王芬とはどんな人?党錮の残党にして合肥侯擁立事件の首謀者