荀彧の弟は袁紹にとっての荀彧?兄に負けない才を持った荀諶

2021年1月20日


 

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荀粲

 

荀氏(じゅんし)は三国志の中でも非常に有能な一族であると知られています。

 

梁冀(りょうき)

 

その有能さは人材の宝庫である豫洲潁陰県(よしゅうえいいんけん)中でも頭一つ抜きに出た存在であり、後漢王朝(ごかんおうちょう)にて当時朝廷内を牛耳っていた悪評高き梁冀(りょうき)一族を批判したことで地方に左遷されたことをきっかけに名を高めた(じゅんしゅく)に始まり、荀淑の8人の子供はいずれも優秀で「八龍」と称されるほどでした。

 

曹操と荀彧

 

そのなかの一人であり済南(さいなん)の相(最上位の行政官)になった荀緄(じゅんこん)の子供が荀彧(じゅんいく)です。荀彧は曹操に仕え王佐(おうさ)の才とうたわれた才覚を見事には発揮し後世に名を残します。

 

荀彧

 

三国志の物語において存在感のある荀彧ですが、荀緄には荀彧の他にも4人の子供がいます。今回はその中でも正史にその活躍が記載されている荀諶(じゅんしん)についてご紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁紹に仕えた荀彧の弟・荀諶

魏志(魏書)_書類

 

荀彧の兄弟は4人いますがその中でも正史にその活躍の記載があるのは荀諶という人物です。この荀諶は「魏書(ぎしょ)」においては荀諶の弟、「荀氏家伝(じゅんしかでん)」では荀諶が4人目の兄とされています。そんな荀諶も豫洲潁陰県中の出身であり自分の仕えるべき人物を求めて故郷をあとにします。

 

戦争をせずに宴会ばかりしている韓馥

 

初期のころ荀諶は同郷の辛評と共に当時冀州(きしゅう)を治めていた韓馥(かんふく)に仕え、その後袁紹(えんしょう)の配下となりその参謀として袁紹をサポートします。

 

荀彧と袁紹

 

また後に董卓(とうたく)の悪政が酷さを増し朝廷から逃れてきた荀彧を迎え入れます。袁紹は荀諶同様荀彧も厚遇しますが、その荀彧は袁紹の器に疑問を持ち後に宿敵となる曹操の下へ身を寄せ天下分け目の一戦である官渡の戦い(かんとのたたかい)では両陣営に分かれて決戦を行います。

 

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袁紹の基盤となる冀州の獲得に貢献

袁紹

 

董卓反乱軍である十七路諸侯(じゅうしちろしょこう)が解散すると袁紹はもともと駐屯していた司隷(しれい)河内郡(かわちぐん)に戻ります。

 

空腹の三国志の兵士(兵糧)

 

しかし河内郡は小さく豊かな土地でもないため兵糧を確保することも難しくなっていきます。

 

被害妄想で怯える韓馥

 

そのため袁紹は冀州の獲得を目論み公孫瓚(こうそんさん)と共に冀州攻めを計画します。しかしこれは袁紹の計略であり公孫瓚を使って当時冀州を治めていた韓馥を脅すためのものでした。そして公孫瓚が戦の準備をしているとき袁紹は「公孫瓚が冀州を狙っている」といった内容の手紙を送ります。

 

韓馥は家臣たちどのようにすべきかと問いますが当時仕えていた荀諶は韓馥に対して

 

「寛容さと度量において民意を得ているのは主君と袁紹と比べどうか」

「状況の判断力・決断力・智勇において主君と袁紹と比べてどうか」

「世間に恩徳を施しているということにおいて主君と袁紹と比べてどうか」

 

と投げかけ、気の小さい性格であった韓馥はいずれの問いに対しても「及ばない」と回答しています。さらに荀諶は「袁紹とは旧知の仲であり同盟関係でもあります。

 

冀州を袁紹に渡すことにより袁紹は深く恩義を感じ重用することでしょう。また公孫瓚は袁紹とは争うようなことはせず冀州は穏やかな日々を送ることができます」と説きこの案を名案と考えた韓馥は袁紹に冀州を献上します。

 

袁紹

 

袁紹は冀州を得るきっかけとなった荀諶を重用しその後も重要な臣下として起用し続けます。結果として冀州を得る最大の功労者となった荀諶のおかげで後に袁紹は一躍天下の一大勢力となります。こういった観点からみると袁紹にとっての荀彧と言えるのではないでしょうか。

 

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突然いなくなった荀諶

田豊

 

袁紹のもとでもその才覚を発揮した荀諶は天下分け目の一戦である官渡の戦いにおいてもあの田豊(でんほう)と許攸と共に謀主(ぼうしゅ)を務めています。

 

正史三国志_書類

 

それだけ重要な人物であるにもかかわらず官渡の戦いの後に荀諶に関する記述はなくなってしまいます。そのため官渡の戦い以降の荀諶の動向については不明ですが、荀諶の息子である荀閎(じゅんこう)は後に魏の仕えており曹丕(そうひ)に強く荒々しい精鋭の軍隊のような人物であると評価されていることから荀諶自身も官渡の戦い以降に魏に仕えたのではないかと思われます。

 

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三国志ライター ボス吉の独り言

ボス吉(ライター)

 

荀彧はその才能を曹操の下でいかんなく発揮し王佐の才と評されるほどの働きをしています。そのため三国志の物語での存在感も大きく荀子の中でも特に名前が知られています。

 

その弟である荀諶もその才に勝るとも劣らない非凡な才能を持っており、流石荀氏の一族であるという印象を受けます。また荀彧・荀諶の子供たちも後に評価されており三国志いちの有能な家系であるといっても過言ではないでしょう。

 

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