「剣門関」は魏の蜀侵攻の際に姜維が立てこもり必死の抵抗をした場所です。「剣門関を取れば四川を得る」とまで言われていました。その剣門関とはどのような場所なのでしょうか?
今回の記事で紹介しましょう。
この記事の目次
剣門関はどこにある?
剣門関は現在の四川省広元市剣閣県にあります。広元市中心部から車で1時間ほどの場所に位置しています。その場所には「大剣山」と「小剣山」があり、お互いまるで壁のようにそびえたっているのですが、その間に一本だけ道が通っており、その道の先に「剣門関」があります。
剣門関ができるまで
剣門関が出来る前は周辺は道がとても険しく、山に穴をあけ、そこに杭を打ち、板を敷く方法で作られた「桟道」と言われる危険な道があるのみでした。
その道は「蜀の桟道」とも名づけられ、蜀の地にたどりつく難しさの象徴でした。その桟道は防衛のために焼かれたりもしましたが、無くてはならない道のため、度々再建されています。
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剣門関の成り立ち
劉備が蜀を支配した際、諸葛亮は国の防衛のために桟道を整備することにしました。その時にこの厳しい自然が蜀の防衛に不可欠ではないか、と気が付いたのです。
そこで諸葛亮は山と山の間に関を建設し、蜀の防衛の要としたのです。また、周辺に30里にもわたる桟道を整備し、剣門関と合わせこの防衛エリアを「剣閣」と名付けたのです。
剣門関で姜維、必死の防衛をするが
その剣門関が力を発揮するときが来ました。それは諸葛亮亡きあとの魏の蜀侵攻です。魏は鍾会と鄧艾に10万もの大軍を持たせ、蜀に攻め込みます。
蜀を落とすには剣門関をなんとしても陥落させなければなりません。剣門関には中央から遠ざけられ、防衛の任に当たっていた蜀の「姜維」が立て籠もっていました。
鍾会は大軍をもって攻めたてますが、流石に剣門関は天然の要害に守られとても固く、一向に陥落する気配がありません。姜維は10か月にわたりこの地を守りました。
鍾会は撤退も検討しますが、鄧艾は剣閣を迂回し山越えをして成都を強襲することにします。
鄧艾は崖を落ち、桟道を作りながら道なき道を進み、ついに蜀の城に到達。
最終的には蜀の君主「劉禅」を降伏させます。この時、姜維は鍾会の軍をいまだに食い止めていましたが、劉禅降伏の報を受け、無念にも降伏します。
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