魔女狩りはいつ始まりどうして終結したのか?社会への不満が魔女を産み出した

2021年7月17日


 

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巨額の財産を所有するテンプル騎士団

 

かつて魔女狩りと言えば中世のヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導により異端審問(いたんしんもん)が活発化し、それに伴い教会の主導による魔女狩りが盛んになり数百万人が犠牲になったと語られました。

 

暗黒の中世とキリスト教のセットですが、1970年代以降、様々な研究により教会による魔女狩りのステレオタイプは(くつがえ)され実際には中世の魔女狩りのイメージは19世紀の小説家、ラモト=ランゴンの空想の産物を歴史家が真に受けたモノに過ぎないそうです。

 

歴史家が空想家の嘘にまんまと騙されたわけですが、実際の魔女狩りは12世紀の中世ではなく、最初の魔女狩り裁判が起きたのは、中世も終わりに近い15世紀に入ってからの事でした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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魔女狩りを推し進めたのは民衆

君主論

 

実際の教会は民衆の呪術や占術に介入する事に消極的で、よほどの証拠がないと介入しようとしませんでした。

 

逆に魔女狩りに熱心だったのは民衆であり、ドイツの一部の村では、委員会を組織して住民を代表して魔女を告発したり、証人を尋問(じんもん)したり裁判所に異端審問を開くように圧力を掛け、魔女の迫害を推進したのです。

 

魔女狩りが民衆の不満のガス抜きになると考えた王や貴族は、この魔女狩りブームに乗ったり、見てみない振りをするようになり、イングランドでは国王任命の職業的裁判官が各地方の巡回裁判所で魔女裁判を行いました。

 

かくして教会の魔女裁判は減少し、逆に世俗の魔女狩りは急増していくのです。誰かを犯人に仕立て上げる事で社会不安やストレスを解消させる人間の嫌な闇の部分が、魔女狩りを一大ムーブメントに押し上げたのでした。

 

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魔女狩りとワルド―派

 

12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからです。それはローマ教皇庁に異端の烙印を押されたワルド―派が迫害を逃れて潜伏していたアルプスの西部地方で始まりました。

 

このワルド―派は12世紀にワルド―という一巡回説教者によって創始されましたが、福音書に基づく清貧の生活を重視し、教会の命令に従わないので次第にカトリックの脅威と見做され、異端の烙印を押されて弾圧が開始されます。ワルド―派は、弾圧を逃れる為に地下活動を選択し、秘密裏に町々を移動して説教を行うシステムを構築、説教者には男も女もいました。

 

ワルド―派の中のイタリア派は、ロンバルディアの貧者と呼ばれ、表向きは教会の信者を装いつつも、裏では福音書に書かれているような道徳を守る事が第一と説き、徳のない聖職者には従わなくてもよいと説いたり、蓄財で腐敗したカトリックの組織全体を無意味と批判。また、煉獄(れんごく)や聖人崇拝など聖書に書かれていない教義や慣習も否定します。

 

こうした運動は、南フランスから北イタリア、アルプス地方、オーストリア、ドイツ、ボヘミアに広がり、危機意識を持ったカトリックは異端審問を開始して徹底的に弾圧し、その一部がボヘミアやアルプスの北に残る事になりました。

 

しかし、ここで起きていたのは魔女狩りではなく、カトリックが異端と決めつけた宗教に対する異端審問でした。

では、これがどうして魔女狩りへと変化したのでしょうか?

 

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魔女狩りガイドブック「魔女に与える鉄槌」

封神伝(書類)

 

15世紀に入ると魔女と妖術に関する書物が一種のブームになります。それらは「異端の魔女の鞭」とか「魔女と予言者について」とか、おどろおどろしいタイトルがついていましたが、多く発行された魔女本の中でも、1486年ドミニコ会の異端審問官だったハインリヒ・クラ―マーよって執筆された「魔女に与える鉄槌(てっつい)」は大きな反響を呼びました。

 

どうして、魔女に与える鉄槌が魔女狩りに大きな影響を与えたのか?

 

それは、この書物が魔女の妖術を疑う人々への反駁(はんばく)と妖術の犯人は男より女が多い事を示し、同時に魔女発見の手順とその証明の方法について記したからです。また、ハインリヒ・クラ―マーは自著に権威のお墨付きを与える為、学識者であったドミニコ会士のヤーコプ・シュプレンガーの名前を勝手に使って箔付けしました。

 

さらに、クラ―マーは、ローマ教皇インノケンティウス8世に魔女狩りを行う事を認めて欲しいとする請願を為しました。

 

インノケンティウス8世は「この上ない熱情をもって願わくは」という回勅を出し、クラ―マーはこの回勅を「魔女に与える鉄槌」の序文に転用します。ところが、インノケンティウス8世は魔女狩りを認めたのではなく、審問官としてのクラ―マーとシュプレンガーの役割を認めただけでした。

 

東京大学 kawausoさん

 

さらに、クラ―マーは、ケルン大学神学部に著作を送付して学術的承認を求め4人の教授から「同書の考察は是認(ぜにん)しうるもの」との所見を得ます。こうしてクラ―マーは「ケルン大学神学部による承認を受けた」として書物を喧伝しましたが、ケルン大学は、後にこの鑑定を誤りとして訂正しようとしました。一連のクラ―マーの行動を見ると、やはりケルン神学部を(あざむ)いたのでしょう。

 

一連の詐欺的手法により、1490年クラ―マーは教会の異端審問部に弾劾されます。しかし、すでに手遅れで「魔女に与える鉄槌」は内容の訂正を経ぬまま1487年から1520年に13版を重ね、1574年から1669年までにさらに16版増刷されるベストセラーになったのです。

 

また、当時は著作権の概念もないので、海賊版も大量に印刷されて横行、ヨーロッパの広い地域で「魔女に与える鉄槌」は魔女狩りのバイブルとなりました。

 

元々クラ―マーは異端審問官として、1485年頃から魔女狩りを開始しましたが、それは拷問、弁護人禁止、供述書の改竄(かいざん)という当時の常識でも認められないものでした。たちまちのうちにクラ―マーに非難の声が上がり、被疑者は釈放されクラ―マーは同地を追放される事になります。

 

かくして信用を失ったクラ―マーは自らの正しさを証明しようと「魔女に与える鉄槌」を書き、皮肉にもそのインチキの権威で飾った本がベストセラーになり、欧州各地にクラ―マーの分身を産み出す事になったのです。

 

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魔女のイメージを変えた反ユダヤ感情

 

また魔女狩りは当時の欧州を(おお)っていた反ユダヤ感情とも結びつき、子供を捕まえて食べる鉤鼻(かぎばな)の人物という魔女像が産み出されます。

 

先に述べたようにワルド―派では女性も説教師として地下活動をしたり、カトリックになりすまして布教をしていたので、それまで女性に限られなかった魔女のイメージが、反ユダヤ感情とも融合し鉤鼻の黒い服を着た女性として集約されていくのです。

 

この点が端的に分かるのが、魔女の集会であるサバトですが、これはユダヤ教における安息日であるサバトから来ていて、明らかにユダヤ人への偏見から生じているのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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