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魔女狩りを批判した人々
魔女狩りを推進した人々がいた一方で魔女狩りを批判した人々もいました。代表的人物がネーデルラント出身でドイツのラインラントで医師をしていたヨーハン・ヴァイヤーで1563年に「悪魔の幻惑について」を発表し「魔女に与える鉄槌」を全く根拠も信仰もないと非難します。
一方でヴァイヤーは魔女狩りに加担した人々についても、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり、責任は悪魔にあるとして魔女狩りに賛同した人々の歪んだプライドにも配慮し、当時大きな反響を呼びます。
「悪魔の幻惑について」が広がると多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女として告発された者が同書の論理で弁明する事もありました。
しかし、それでも魔女狩りの勢いは拡大していき、ヴァイヤーが「悪魔の幻惑について」を執筆したラインラントでも1581年には水責めと拷問が復活します。
こうして魔女狩りは16世紀から17世紀にかけて最盛期を迎える事になりました。
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魔女狩りの温度差
魔女狩りはかつては、長期に渡り全ヨーロッパで見られた現象と考えられてきましたが、実際には地域により大きな温度差がありました。
全体として言えるのは、魔女狩りが起きた地域はカトリック・プロテスタントの宗派を問わず、また強力な統治者による支配が安定した地域では大規模な魔女狩りが起きず、小さな国々が並立し統治者の権力が弱い土地ほど、激しい魔女狩りが起きたという事でした。
これは、小国の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまった為と考えられます。
地域で見るとフランスは同じ国内でも地域に差があり、ドイツでは領邦ごとの君主の考えで魔女狩りの様相に差がありました。
イタリア、ヴェネチアでは裁判が多いものの鞭打ち刑で釈放され処刑がほとんどなく、スウェーデンでは強力な王権の下で裁判手続きが厳守され、スペインではバスク地方を除き異端審問は起きても魔女狩りには発展せず、ポーランドや少し遅れてハンガリーでは18世紀に激しい魔女狩りが起きました。
イングランドでは1590年代がピークでしたがすぐに衰退し、対照的にスコットランドでは1590年代から1660年代と長期に渡って続きますが、アイルランドではほとんど見られなかったそうです。
オランダでは1610年を最後に魔女が裁判に掛けられる事は無く、北米大陸では、1692年のニューイングランド、セイラムで起きた大規模なセイラム魔女裁判が唯一の事件とされています。
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魔女はどうして火あぶりになるのか?
魔女の処刑法としては火あぶりが有名で、生きたままで魔女が焼かれる絵画や銅版画は、誰でも一度は目にした事があるでしょう。
しかし、実際には生きたまま魔女と認定された者を焼き殺す事は多くなく、大体は絞首刑などで処刑した後で死体を燃やす事が多かったようです。
つまり、魔女に惨い苦しみを与える為に火あぶりにしたわけではないようですが、どうもこれは、キリスト教以前のケルト人やゲルマン人の死生観の中の生き物は死んでも骨が残っていれば甦る事が出来るという信仰に関係があるようです。
この信仰に照らすと、ただ殺して地面に埋めただけでは魔女の骨が残り甦る恐れがあります。だからこそ処刑した上で死体を盛大に焼いて骨まで炭して捨てていたわけです。
キリスト教が広まる前、ヨーロッパでは広範囲にゲルマン所属やケルト人が住んでいましたから、キリスト教化された後もゲルマンやケルトの風習が残っていたのでしょう。
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魔女狩り衰退の理由
ヨーロッパで猛威を振るった魔女狩りはどうして衰退して行ったのでしょうか?
これには、ガリレオ・ガリレイやルネ・デカルト、アイザック・ニュートンのような科学者が17世紀に続出し、著作を通じて人々の迷信を打破したからと説明されがちですが、当時の識字率と書物の普及率、鉄道がない時代の情報速度を考えると、そう簡単に庶民層にまで科学知識が広まったとは言い切れないようです。
ただ、魔女狩り裁判を起こすのは、その社会の上流階級なので新しい科学の洗礼を受けた上流階級の知識人層が魔女などいない事を確信し、庶民が引っ張って来た魔女容疑者に対し、極刑を下す事がなくなったのは大きな要因でした。
嫌な話ですが、魔女狩りはブームであり、弱い庶民が集団となり気に食わない人間やよそ者を吊るしあげ、残酷な死を迎えるのを楽しむ残酷ショーの一面がありました。
こうして人々はペストのような疫病や戦争、貧困、飢饉がもたらす多大なストレスを、魔女の仕業として処理する事でカタルシスを得ていたのですが、幾ら魔女を起訴しても裁判官が極刑を命じなくなり、残酷ショーが楽しめなくなったのです。これでは、魔女を起訴する労力と合わないので、魔女狩りは下火になっていきました。
また、17世紀の宗教戦争を通して、欧州に人間中心主義が浸透し、悪事は悪魔が人に取りついて起こすのではなく、あくまで人間個人が起こすモノという認識が知識人階層に共有されるようになり、悪魔が人に取りつくという考え方を信じなくなったという事もあるようです。
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世界史ライターkawausoの独り言
今回は魔女狩りの始まりから終わりまでを解説してみました。元々は、カトリックを批判するカタリ派やワルド―派を弾圧する異端審問だったものが、反ユダヤ主義や多くの魔女本の流布により魔女狩りへと変化。
そして魔女狩りの担い手は異端審問と違い教会ではなく名もなき弱き庶民だったのです。
これらの事実は、不安や恐怖にさらされるとスケープゴートを求めて、心の平穏を得ようとする人間の弱さや狡さ、卑怯さや非情さを端的に表しています。
しかし、それを知る事は、私達が同じ轍を踏まない上で重要な事なのです。真の解決策から目を背け、別の何かを叩く事でカタルシスを得るという手法は、21世紀の今でも堂々と、より露骨に行われているのですから
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