募集期間:2021年2月(1週間)
孫権と言えば呉王にして呉の皇帝。早くに父、兄を亡くして、しかし数多くの部下たちに助けられながらも三国の一つを盟主となった人物です。
お酒がちょっぴり大好きな所もチャームポイントだと有名な三国志の英雄ですね。
そんな「孫権が50年の長期政権を保った理由は?」。皆さんが選んだ理由と共に見ていきたいと思います。
憧れちゃう、謙虚さ
「父や兄みたいに好戦的じゃなかった所」
引用元:はじめての三国志TV
やはり孫権の謙虚さは格が違った……という神レベルの謙虚さはないですが、孫権は兄である孫策からも「天下争いに積極的に加わることはお前は私には及ばないが、才能ある者たちを用いて国を保つ能力は私よりもお前の方が優れている」と言われました。
孫権はこの事をよく理解していたのか、まずは国を守ることを第一に、兄に言われた自分の長所を活かしながら、そして兄のように領土を拡張する才には及ばないと理解しつつ、無理には行おうとはしませんでした。そういった自分を見つめる能力は、兄である孫策も良く分かっていたのかもしれませんね。
若き頃より培った、忍耐力
「酒を飲むと酒乱と成りますが…飲まない時は、家臣や官僚らの意見に耳を傾けて、方針を決めてました。劉備に荊州を取られても、切れないで、我慢して、脅威が無くなるまで、忍耐でした。家臣らの絶妙な芝居で関羽を油断させてから、荊州を奪還しました」
「よく耐えたよ本当に」
引用元:はじめての三国志TV
謙虚さとやや重なる部分もありますが、孫権はここ一番の粘り腰は中々のものです。また孫権の部下と言うとどうにも我が強いというか、だいぶ個性が強めな皆さんがいらっしゃいますが、孫権はそんな部下たちの意見も良く聞き、上手く捌いていったと思います。そういうややストレスが溜まりがちな人付き合い能力、孫権の強みの一つでしょう。
決めるとこはきっちり決める、判断力
「良い意味で人任せにできたと言う性格とその責を全うできる部下が居たと言う事が一番大きいのではないでしょうか?」
引用元:はじめての三国志TV
赤壁の戦いでの「戦う道」を選んだ判断力もそうですが、筆者的には特に後年、夷陵での粘って粘っての大勝利から劉備との和解、即座に魏との三方面への切り替え、この一点から判断力の優秀さを挙げたい所存です。粘る時は粘る、決める時は決める、その孫権の強さが最高に表面に出てきた瞬間ではないでしょうか。
ちょっと欲を言うなら、この判断力が晩年にも出ていれば言うことなしだったと思います。
父と兄から引き継いだ、人望
「人望だと思います。黄蓋、程普といった孫堅パパからの歴戦の猛者や周瑜、呂蒙、陸遜、魯粛といった優秀な人物が揃っていましたからね」
引用元:はじめての三国志TV
孫権の父、孫堅。孫権の兄、孫策。彼らも多くの頼りになる臣下を率いて戦っていましたが、彼らは志半ばで退場してしまいました。
残された孫権は若年、19歳。
しかしそこまでに、そしてそれからも、呉の多くの優秀な人たちが孫権を支えてきました。何よりも「父と兄から引き継いだ人々」が支えてくれたのは、曹操、劉備に劣らず人望があった証明ではないでしょうか。
孫権の魅力
「孫権に「忍耐力」「判断力」が無かったら長く国を維持出来なかったと思いますが、もう一つに素直さもあったのかも知れません」
引用元:はじめての三国志TV
こちら、とても頷いてしまいました。孫権は若年で家を背負う立場になりましたが、周囲の言葉に良く耳を傾けました。若い孫権がそんな風に頑張っているのは、周囲からすれば「支えなきゃ!」と思わせる存在だったのでしょう。何よりその相手が素直に自分の言うことを聞いてくれるなら、これ以上のことはありません。そう言う所、孫権の弟気質、ですね。
おっと張昭さん、今回ばかりは御控え下さいませ!
三国志ライター センのつぶやき
さて筆者の日頃の記事を見て頂ければ大体想像がつくことでしょうが、筆者の一番目を引いたのはこちらのコメント
「諸葛瑾」
引用元:はじめての三国志TV
それな!!(スタンディング)と、諸葛瑾だけとは言いませんが、孫権もまた数多くの人材に恵まれました。ただ晩年になるとどうにも人の言うことを聞かない、このために特に陸遜が苦労することになるのですが……不思議なほど、孫権を上手に説得できたのが諸葛瑾です。
呉の水魚の交わり、果たして先に消えたのは水だったのか、魚だったのか……
そんな風に思いを馳せつつ、ここで一先ず幕引きとさせて頂きましょう。どぼーん!
参考引用:はじめての三国志TV