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黄皓の何がいけなかったのか?
これら、前述したような行動は第一に「宦官に許してはいけない行為」であり、第二に「宦官ならやることなんだから気を付けなければならない行為」であると思います。つまり黄皓を止める人、何かしても気を付ける人が必要になります。
これに関してはそもそも劉禅自身も省みるべきことであったと思いますね。そして何より、宦官は漢王朝でも悪い意味で猛威を奮った存在なのですから、そんな人物を登用するならばことさら気を付けなければならなかったでしょう。
ではどうしてこんな宦官まで政治参加させるような状況下になったのか?
つまり原因
そこに蜀の人材不足があると思われます。蜀は次代の人々をどでかい敗北でかなり失ってしまいました。そう、夷陵の戦いです。敗北した上に魏の存在を許しては置けない。蜀という国の在り方からすれば魏とは対立し続ける必要がある。
だからこそ手が足りない、人材が足りない……その原因として夷陵の戦いでの敗北があるとすると、黄皓とかいう存在まで使わざるを得ない状況に追い込んだ玄徳殿にもその一因があると思うのですが……皆さんはどうお考えですか?
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三国志ライター センのひとりごと
蜀は、漢です。魏に滅ぼされた(ということになっている)漢を引き継いだ国です。ただしその漢の国は宦官の台頭からボロボロになっていき、宦官と武将たちが対立して崩壊に奪取していきました。
漢を建国したら漢の末路とほとんど同じになっていたというブラックジョーク。ちょっと頭が痛くなってくるブラックジョークですが、今回はこの沼に飛び込んで終わりたいと思います。
どぼん!
参考文献:蜀書黄皓伝
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