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自身はちゃっかり北伐を成功させる司馬懿
司馬懿は蜀と呉の侵攻を防ぎながらも236年には、自ら遼東の公孫淵を滅ぼしています。遼東への侵攻は主に東征と言われますが、北方にあることは事実なのでこれも北伐と言えるでしょう。
それはさておき、この戦いにおける司馬懿の手腕は見事で、わずか1年で公孫淵を降伏させ平定を果たしています。しかもその大半は往復の行軍や休息期間であり、実際に戦闘を行った期間は3、4ヶ月ほどでしょう。
国力の上では魏が断然優勢でしたが、この時は司馬懿の方が兵は少なく、公孫淵の方が数の上では有利に立っていました。
しかし、司馬懿は遼隧で待ち構える公孫淵の軍勢を陽動作戦によって撒くと、直接本丸である襄平へと進軍。敵の食料が1ヶ月分しかないと見ると包囲を続けて相手の自滅を待ちます。
食料が尽きた公孫淵は人質を出して和睦を試みますが、司馬懿はこれを拒否。公孫淵は仕方なく包囲を破って逃走を試みますが、そのまま討たれてしまいました。
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司馬懿の戦略
蜀と呉の北伐を破った際も孟達や公孫淵を討った際にも共通して言えるのは、司馬懿が敵の急所を常に狙うということ。
蜀が兵糧に乏しいことを知ると長期化させて早々に諦めさせていますし、逆に孟達が1年分の食料を有していることを知ると長期戦を防ぐために強行軍で準備をする前に打ち破っています。
常に相手の嫌がる戦い方をするのが司馬懿流の戦法で、昼夜敢行軍などリスクも恐れません。この辺りが堅実な諸葛亮との違いであり、たびたび発生している国内での反乱平定でも活躍している要因でしょう。これは魏が兵戸制を用いて常備兵を有していたからこそ迅速に軍を編成できたという背景もあります。
ただ、そうした制度を司馬懿がうまく活用したからこそ、司馬懿は国防において大いに活躍したと言えるでしょう。
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三国志ライターTKのひとりごと
司馬懿の戦い方は魏の国力というバックグラウンドでの優位性が確立されているからこその方法ですが、仮に司馬懿が蜀か呉にいたとしたら、そのバックグラウンドでも最善の戦略を考えたはずです。
とにかくムダがなく、チャンスができたら一気呵成に攻め立てる野性味のあるスタイルが司馬懿最大の武器だったのかもしれません。
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