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その後の張騫とシルクロードの始まり
長安に帰還した後、十数年の抑留生活の中で匈奴の情報を良く知っていた張騫は武帝に重用され、大将軍・衛青の幕僚として匈奴との戦いに従事します。途中、一時匈奴に敗れて責任を取らされて死罪にされそうになりますが、過去の功績が評価されて死罪を免れるという一幕もあります。その後も、西域から帰ってきた後の張騫は、匈奴に対する軍事作戦や外交に関わりつづけました。紀元前114年にその生涯を閉じたと言われています。
張騫が亡くなる直前の紀元前119年には史上に名高い名将である衛青・霍去病の活躍により、漢は匈奴に対して決定的な勝利を挙げ、以降匈奴は漢に対抗する力を失ってしまいます。張騫もこの勝利を知っていたはずであり、匈奴との戦いに全てをかけた張騫の人生はこの勝利によって報われることになります。
しかし、匈奴に大勝した後であっても、漢の武帝は張騫の語った「汗血馬」の存在を忘れることができませんでした。武帝は汗血馬を渇望し、匈奴の弱体化に乗じて西域への支配を拡大するばかりでなく、汗血馬の産地である大宛に大軍を送り込み、力ずくで汗血馬を手に入れようとします。その武帝の執念はついに実り、紀元前102年、ついに大宛を降して汗血馬を手に入れます。
これ以降、武帝は張騫がもたらした情報をもとに、従来の支配者であった匈奴に代わって西域経営に着手するとともに、駿馬を求めて西域や中央アジアの諸地域との交易を推進します。
中国産の絹と西域の馬を取り引きするこの貿易は「絹馬貿易」と呼ばれ、中国産の絹が中央アジアを通じて地中海へ至るというシルクロード交易の基盤をなすことになります。こうして、以降ユーラシア大陸の東西をつなぐ「シルクロード」と呼ばれる交易路が本格的に用いられるようになったのです。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。シルクロードはあまりにも有名ですが、その始まりには様々なドラマがあったのですね。張騫の十数年に渡る大冒険と汗血馬に対する武帝の渇望こそがシルクロードを開いたと考えると、人の執念こそが歴史を形作ることもあるのだな、という感慨に浸らずにはいられません。
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