二世もの、皆さんはお好きでしょうか?
志半ばで儚くなった先代の遺志を継ぐ!という展開は物語として熱いものがありますよね。ただしそれは往々にして物語の中のお話であり、実際には二世というものは先代が優秀なら優秀で、そうでなくてもそれなりに苦労するもの。
今回はそんな三国志の二世たちのお話を少しばかりいたしましょう。
我が樊噲
曹操が我が樊カイとまで呼んだ、魏の歴戦の猛将。虎痴の異名を持つその人物は、曹操を始めとして曹家三代に仕えた武将です。そう、皆様ご存知、許チョその人。虎痴とは普段はぼーっとしているけれど、戦いの際にはまるで虎のように勇猛果敢に戦ったというその姿から来ています。
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主との別れ
さて許チョは曹操を数々の危機から救いました。時に許チョはまるで周囲の人物の心を読んでいるかの如く動き、曹操を窮地から救ったのです。
曹操はそんな許チョを寵愛していましたが、曹操は亡くなります。残念ながら人には死期というものがありますからね。そして曹操の死に、許チョは血を吐くほどに泣いたと言われています。
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「樊噲」の子
そんな許チョもいずれ亡くなりました。その際に後を継いだのが許儀です。もちろん許チョの息子ですね。魏という国の祖である曹操に尽くした猛将、許チョの息子として生まれた彼はその爵位を継ぎました。許チョの息子、と考えて見ると凄い立場にいますね……ちょっとしたプレッシャーです。
しかし許儀の記録はほとんどありません。ないというよりも、残らなかったという方が正しいでしょう。
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許儀の最期
263年、蜀討伐が開始されました。この際に、許儀は牙門将として従軍しています。そして蜀に向かう道の整備など、インフラを担当していました。
この時に、大将であった鍾会が橋を渡ろうとして落馬しました。これは橋に穴が開いて、それに馬が足を取られての事故だったようです。しかし鍾会はこれに激怒、監督不行き届きとして許儀は処刑されました。この際に功臣である許チョの息子として助命嘆願がされましたが、鍾会の怒りは収まらずに……という結末を迎えたようですね。
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