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英雄ナポレオンの相棒・マレンゴのルーツは?

2022年1月22日


 

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ナポレオン

 

言わずと知れた近代フランスの英雄・ナポレオン。一代でヨーロッパを席捲したナポレオンには、彼の華々しい戦歴の陰で、常に彼につき従い続けた相棒がいました。それこそが、ナポレオンの愛馬マレンゴでした。

 

そこで今回はナポレオンの知られざる相棒であるマレンゴについて見ていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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マレンゴの生い立ちと血統

世界史の馬 マレンゴ(赤兎馬シリーズ)

 

フランス革命の嵐が吹き荒れていた1793年に、マレンゴは生まれたと言われています。マレンゴの生い立ちについては分かっていないことがほとんどですが、彼がアラブ種の馬であり、エジプトでナポレオンと出会ったことを考えれば、マレンゴのルーツは中東にあったと考えられます。

 

マレンゴは体高145cmほどと小さい馬でしたが、体高の低さはアラブ種の特徴として知られています。アラブ種は華奢な体格ながら、乾燥したアラブの砂漠地帯という厳しい環境に適応したため、スタミナと耐候性に優れており、古くから中東のアラブ人たちの間で品種改良を重ねつつ、大切に育まれてきた馬です。

 

中世以降、アラブ商人との交易によってアラブ種はヨーロッパにももたらされ、耐久性に優れるアラブ種は各国で重宝され、イギリスを中心にヨーロッパの在来馬との交配と品種改良が重ねられます。こうしてアラブ種とヨーロッパの在来馬との交配の結果誕生したのが、競走馬で知られるサラブレッドです。

 

ともかく、マレンゴはヨーロッパでも珍重されていたアラブ種の馬でした。マレンゴは6歳までをエジプトで過ごしていましたが、1799年、ついに英雄ナポレオンと運命の出会いを果たすのです。

 

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ナポレオンとの出会い

軍事の才能もピカイチなナポレオン

 

1769年にフランスで生まれたナポレオンは、軍隊に入隊すると、フランス革命という時代の風雲に乗り、フランス革命戦争で数々の功績をあげ、フランス軍の若き英雄ともてはやされていました。

 

機動力の高さも欧州一だったナポレオン

 

当時はフランス革命政府を敵視する周辺諸国が対仏大同盟を組織し、フランスは周辺諸国全てを敵に回して戦っていました。そこで、ナポレオンは対仏大同盟のリーダー・イギリスの貿易拠点であるエジプトを叩くべく、1798年にエジプト遠征を行います。エジプトに攻め込んだナポレオンは現地の勢力とイギリス軍を一度は破りますが、イギリス海軍に制海権を奪われたため補給不足に陥り、1799年にはあえなく撤退を余儀なくされます。

 

ナポレオンの相棒 マレンゴ

 

その際、ナポレオンがエジプトで手に入れ、フランスに連れ帰った馬こそがマレンゴでした。マレンゴは芦毛(あしげ)の馬であり、芦毛の馬は年齢を経るごとに毛が白くなるため、戦場では敵に見つかりやすいという欠点がありましたが、マレンゴはその欠点を補って余りあるほどの馬でした。マレンゴは、並外れた脚の速さとスタミナを併せ持つ、無類の名馬だったのです。

 

一説によれば、マレンゴは毎日の軽い運動で何十マイル(1マイルは約1.6km)もの道のりを軽々と走破し、敵味方の銃弾が入り乱れる戦場でも一切物怖じすることなく、主のナポレオンにつき従ったといわれています。

 

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マレンゴとナポレオンの愛情

 

並外れた名馬であるマレンゴをナポレオンも愛し、彼の数々の激戦に際して、ナポレオンはすべてマレンゴに乗って戦場を駆けまわっています。そもそも「マレンゴ」という名も、かの有名な「アルプス越え」を成し遂げたナポレオンがオーストリア軍を打ち破った戦いにちなんでつけられているのです。

 

ナポレオンのマレンゴに対する愛情は深く、当時の有名な画家であるダヴィッドに自らを題材とした画を依頼した際にも、マレンゴに乗った自身がアルプス越えの行軍に向かう姿を描かせています。それこそが、教科書にも載っている有名な『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』です。

 

とはいえ、実際にアルプスを越える際、ナポレオンは馬ではなくラバに乗っていたらしく、マレンゴに乗ってアルプスを越えるナポレオンの姿は脚色です。

 

しかし、自らの晴れ姿を画家に描かせるときにも、わざわざマレンゴに乗った姿を描かせている点に、ナポレオンのマレンゴに対する並々ならぬ愛情が見て取れますね。

 

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マレンゴとナポレオンとの別れ

島流しにあうナポレオン

 

1804年にフランス皇帝に即位したナポレオンは栄光を極めましたが、その栄光は長続きしませんでした。1812年のロシア遠征に惨敗したことでナポレオンの威信は失墜し、1814年には一度帝位を追われ、エルバ島に流されます。

 

翌年、ナポレオンはエルバ島を脱出して皇帝に返り咲きますが、1815年のワーテルローの戦いで敗れ、ついにナポレオンの時代は終焉を迎えます

 

最後の決戦となったワーテルローの戦いにおいても、ナポレオンはマレンゴにまたがっていたと言われていますが、ワーテルローの戦いの後、マレンゴは遂にイギリス軍に捕らわれてしまいます。この後、ナポレオンは絶海の孤島であるセントヘレナ島に流され、これがマレンゴとナポレオンの永遠の別れとなりました。

 

その後、マレンゴは戦利品としてイギリスに連れていかれ、イギリスではその名馬ぶりを評価されて種牡馬となり、イギリスの牧場で余生を過ごしたと言われています。

 

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馬が動かした中国史

 

 

三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。一代でヨーロッパの覇者となった英雄・ナポレオンにはマレンゴという知られざる相棒がいたのですね。こうしてみると、ナポレオンが希代の英雄であるならば、その乗馬であるマレンゴもまた、様々な伝説に彩られた希代の名馬だったと言えるのではないでしょうか。

 

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武則天

 

 

 

 

 

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Alst49

大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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