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宿敵袁紹を破るため、荀彧と郭嘉奔走
曹操は呂布を破り、宿敵袁紹と本格的に対峙することになりました。その決戦が「官渡の戦い」でした。
郭嘉はその戦いに従軍し、背後の孫策を恐れる家臣たちに対し、「孫策は恨みを多く買っているから、長くは無いだろう」と予想し、事実、孫策は曹操の背後を突く前に殺されてしまいます。
荀彧は、袁紹の強大さを主張する「孔融」らに対し、袁紹陣営の弱点を次々と挙げ、曹操の勝利を予想し、事実、その通りになったのです。荀彧は官渡の戦いでは後方支援に徹していましたが、弱気になる曹操に対し、発破をかけ、袁紹は戦いの後に病死します。
袁紹の死後、多くの武将は一気に決着をつけることを主張しますが、郭嘉は「待てば袁家は内紛がおこる」と予想、曹操が劉表攻めの構えを見せると、実際に袁家で後継者争いが起こり、これに乗じて袁家を滅ぼすことに成功します。
袁譚と袁尚は攻めれば団結し、放置しておけば争うよ・・ぷっ
— 郭嘉@はじめての三国志(はじ三) (@kakuka_hajisan) January 17, 2022
袁紹との戦いではかつて袁紹と会った郭嘉、荀彧の知恵が大いに役に立ったのでした。
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郭嘉は若くして亡くなり、荀彧も謎の死を遂げる
袁家に勝利したのち、曹操は「鳥丸族」の討伐に乗り出します。郭嘉も従軍しますが、帰還後に病を得て38歳の若さで亡くなります。
曹操は「郭嘉は我々より若い。天下泰平を成し遂げた後には彼に後事を託すつもりだったのに。」と大変悲しんだといい、「赤壁の戦い」で敗れたときも「郭奉孝がいればこんなことにならなかったろうに。」と大変嘆いたそうです。
荀彧は郭嘉の死後も曹操の側近として多くの人材を発掘するなど功績を挙げました。しかし、曹操が爵位を進め、「国公」とし、「九錫」(きゅうしゃく、最高の恩賞で天子に準ずる恩賞)を授与するように朝廷に働きかける動きがありました。
荀彧は「曹操が挙兵したのは朝廷の為であるはず、恩賞は求めるべきではない」と唯一反対し、曹操の怒りを買いました。
その後荀彧は孫権追討戦に駆り出され、そのまま病死しました。一説には自殺とも伝えられています。
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三国志ライターみうらの独り言
郭嘉と荀彧、二人の軍師は曹操の覇業にきわめて大きな功績を残しました。彼らを登用した曹操の人を見る目は流石で、彼らを登用できなかった袁紹の器の小ささが目立ちますね。ただ、二人とも最期はあまり報われず、知恵のある者を長く仕えさせる難しさも感じますね。
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