荀彧の憤死が後世の評価に影響を受けた?その理由とは?

2022年2月19日


 

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荀彧と曹操

 

三国志」において、曹操(そうそう)の右腕としてその覇業を支えた名軍師・荀彧(じゅんいく)。しかし、荀彧の最期は悲惨なものであり、魏公への就任を目論む曹操と対立するようになり、憂いの中で病を得て亡くなります。

 

亡くなる荀彧

 

今回は、そんな荀彧の死とその死に対する後世の評価について見ていきたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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荀彧の出自と活躍

荀彧

 

荀彧は163年に豫州潁川郡(よしゅうぐんえいせいぐん)で生まれました。この潁川郡という土地は後漢末において、多くの人材を世に輩出しています。

 

郭嘉

 

例えば、荀彧以外には荀攸(じゅんゆう)郭嘉(かくか)郭図(かくと)鍾繇(しょうよう)陳羣(ちんぐん)・など、一度はその名を聞いたことのあるである有名人たちが挙げられます。

 

荀彧の一族は諸子百家の一人である荀子(じゅんし)の末裔と言われ、荀彧の祖父・荀淑(じゅんそう)は清廉の士として人々に慕われており、その下には中央政界の権力抗争から離れ、清廉の道を追求する「清流派人士」が集っていました。

 

暴れまわる黄巾賊

 

こうした清流派の人々に囲まれて育った荀彧も、清流派の名士として成長していくことになります。その後、黄巾(こうきん)の乱に始まる後漢末の動乱の中で、荀彧は次第に乱世を終わらせるべく、英明な人物を補佐して「天下統一」を成し遂げるという志を掲げるようになります。

 

荀彧と袁紹

 

大志を抱いた荀彧は自分の夢を託すべき武将を探し求め、初めは袁紹(えんしょう)に仕えますが、袁紹の器の小ささに失望して袁紹のもとを去ります。その後、いまだ駆け出しであった曹操に非凡な才を見出し、彼に仕官します。

 

張良と劉邦

 

曹操も「王佐(おうさ)(さい)」とまで謳われた名軍師・荀彧の仕官を喜び、漢を打ち立てた英雄・劉邦(りゅうほう)を支えた軍師・張良(ちょうりょう)にたとえて「我が子房」と呼ぶほどでした。

 

曹操を励ます荀彧

 

この後、荀彧は曹操の腹心として、数多くの献策を行って曹操の勝利に貢献するとともに、持ち前の優れた人物観察眼を生かし、国家の柱石とも言うべき有能な人材を数多く曹操に推薦することで、曹操陣営を大きく発展させています。

 

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楚漢戦争

 

 

 

「正史三国志」における荀彧の憤死

正史三国志_書類

 

しかし、そんな「王佐の才」に恵まれた荀彧でしたが、先述したように憂いに満ちた憤死を遂げてしまいます。その経緯は、文献によって異なりますが、「正史三国志」では以下の通りです。

 

董昭

 

212年(建安(けんあん)17年)、曹操の家臣であった董昭(とうしょう)は、朝廷が曹操に九錫(きゅうしゃく)の礼物を与え、魏公に封ずるべきと主張します。九錫の礼物は、皇帝にも並ぶ恩典の数々であり、臣下がこれを受けるということは帝位を窺うことを世に示すことでもありました。

 

ダークサイドに堕ちた王莽

 

事実、前漢から「禅譲(ぜんじょう)」によって帝位を獲得した王莽(おうもう)は、「禅譲」を行わせる前に九錫の礼物を受けています。

 

反対する荀彧

 

これを聞いた荀彧は、後漢王朝への忠誠心を捨てきれず、曹操が九錫の礼物を受け、魏公となることに反対します。これを聞いた曹操は不快感をあらわにしたと「正史三国志」には記録されています。

 

鬱になる荀彧

 

とはいえ、曹操は長年ともに戦った荀彧を粗略に扱うことはせず、呉と戦う兵士たちの慰問のために徐州(じょしゅう)へ派遣します。しかし、後漢王朝の帝位を狙う曹操への忠誠心と、後漢王朝そのものへの忠誠心で板挟みになった荀彧は間もなく病を得て亡くなってしまいました。

 

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光武帝

 

 

ほかの文献における荀彧の憤死

空箱を受け取る荀彧

 

「正史三国志」では以上のように記述されている一方、ほかの文献ではいずれも荀彧が憤死している記述はあるのですが、その経緯は異なります。

 

例えば、「正史三国志」の注に引用されているほかの文献の記述を見ていくと、『魏氏春秋』なる書物によれば、荀彧はある日曹操から空の器を送られたのを見て、「自分はもはや必要とはされていない」と悟り、服毒して自害します。

 

処刑を下す曹操

 

また、『献帝春秋』によれば、曹操が自らに反乱を起こそうとした董承(とうしょう)を処刑した時、献帝の家臣であった伏完(ふくかん)は、自分自身や娘である伏皇后、そして献帝自らが曹操への復讐を企てているとの書簡を荀彧に届けますが、荀彧はそれを曹操に報告せずに隠してしまいます。

 

ブチ切れる曹操

 

これに気付いた曹操は激怒し、以降荀彧と曹操の関係は悪化し、伏皇后と曹操が対立した際には、曹操は当てつけのように荀彧に伏皇后を殺すように命令し、これに従わなかった荀彧は自殺を選んでいます。

 

三国志演義_書類

 

そして、『三国志演義』では、やはり魏公就任に荀彧が反対した結果、荀彧と曹操の関係が悪化し、荀彧は自害に追い込まれています。以上のように、いずれの文献でも、荀彧の死は長年仕えた主である曹操との対立の結果、非業の死を遂げるという悲惨なものとなっています。

 

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はじめての漢王朝

 

 

荀彧の憤死の後世への受容

三国志の時代のお盆02 荀彧

 

こうした荀彧の悲劇的な死は、後世の人々からも悼まれています。特にその死は、臣下の道を逸脱して九錫の礼物と魏公就任を求めた曹操を諫めた結果の憤死であったことから、荀彧を後漢王朝の忠臣として評する声が多いように思います。

 

賈クが大嫌いな裴松之

 

例えば、「正史三国志」を編纂した陳寿(ちんじゅ)は、同じく曹操の軍師であった荀攸・賈詡(かく)らとともに荀彧の伝を載せていますが、これは注釈者であった南朝宋の裴松之(はいしょうし)から批判されています。裴松之いわく、清廉潔白な忠臣である荀彧と、裏切りを繰り返す梟雄(きょうゆう)の賈?を並べるのはおかしい、とのことです。

 

范曄

 

また、「後漢書」を編纂した南朝宋の范曄(はんよう)は、荀彧を「荀彧の進む道と曹操の進む道は対立したが、荀彧はあくまで正道を進み、自らを犠牲にして仁義を貫いた」と称賛しています。

 

西遊記巻物 書物_書類

 

そして、「資治通鑑(しじつがん)」を編纂した北宋の司馬光(しばこう)は、「建安年間の初め、天下は大いに乱れて、漢王朝は寸土も支配しえなかった。しかし、荀彧は曹操を助け、曹操は天下の八割を得た。

 

管仲

 

このような功を挙げた荀彧は春秋時代の斉の管仲にも匹敵する。また、管仲は主の子糾のために死ななかった(新たな主の桓公に乗り換えた)のに、荀彧は漢王朝のために死んだ。その仁義は管仲をも凌駕している。」と最大級の称賛を送っています。

 

しかし、一方で荀彧に対する批判もあります。唐の杜牧(とぼく)は、「荀彧が曹操に兗州(えんしゅう)を取らせたときには高祖劉邦(りゅうほう)光武帝(こうぶてい)を引き合いに出し、官渡(かんと)の戦いで許昌(きょしょう)に引き返させなかった時には、楚漢(そかん)の戦いにたとえた。(曹操の行動をかつての帝王の覇業になぞらえた)

 

それなのに、まさに曹操の覇業が成らんとするときになって、荀彧は大義名分を滅びゆく漢王朝に見出した。これは、盗賊のために壁に穴をあけ、棺を開けた後に盗賊と手を切ったようなもので、荀彧が盗賊で出ないと言えるだろうか?」と言い、荀彧の行動を偽善として批判しています。

 

このように、荀彧の憤死は三国志の中でも悲劇的なシーンであるだけに、古来よりその死は人々の間で語り草となっていたのですね。

 

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三国志ライター Alst49の独り言

Alst49さん 三国志ライター

 

いかがだったでしょうか。曹操を長年支え続けた荀彧が、晩年には曹操と仲たがいした上に憤死というのは、あまりにも悲しい話のように思えます。だからこそ、古来より荀彧の死については様々な物語が付せられ、毀誉褒貶(きよほうへん)様々な評価が下されてきたのでしょう。

 

プロ野球を学んでいる荀彧

 

いずれにせよ、荀彧の死が三国志の中でも一・二を争うほどの悲劇的なシーンであることは変わりありません。皆さんは荀彧の死を見て、どのように受け止めたのでしょうか。

 

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大学院で西洋古代史を研究しています。中学1年生で横山光輝『三国志』と塩野七生『ローマ人の物語』に出会ったことが歴史研究の道に進むきっかけとなりました。専門とする地域は洋の東西で異なりますが、古代史のロマンに取りつかれた一人です。 好きな歴史人物: アウグストゥス、張遼 何か一言: ライターとしてまだ駆け出しですが、どうぞ宜しくお願い致します。

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