さていくらか紹介に紹介を重ねた八王の乱。メンバーの紹介を見て頂ければわかると思いますが、八王の乱とは司馬一族の内乱です。そんな内乱がどうして晋王朝の命運を縮められるだけ縮めたのか?
今回はその中でも(筆者の考えうる)トップランクにやっちゃった瞬間をご説明したいと思います。
この記事の目次
内乱は良くないネ
基本的に、内乱は良くありません。外に敵がいれば、更に言うなら内側に敵がいれば尚更です。
乱が起きれば戦争が起こる、戦争が起これば当然戦っている国は疲弊する、内乱で疲弊するのは結果的に自分たちだけです。そういう意味で司馬一族でとことん争いを続けた八王の乱は、最悪の乱とも言えるでしょう。
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異民族
さて前述したように内側の敵として、異民族がいます。異民族は三国時代からの悩みの種でもありありましたが、晋の時代には魏のみならず嘗ての蜀の領地にも異民族がいました。
受け入れはどんどん進んでしまい、まとめておくと危険なので各地にバラバラにしておこうという一時しのぎの計画でしたが、管理しきれなくなると崩壊を始めます。そしてその管理を完全に怠ったのが、八王の乱という出来事でもあるのです。
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司馬穎のやらかし
ここで筆者が一番のやらかし案件だと思うのが、司馬穎の異民族集中です。
司馬エイは司馬越と王浚との関係悪化、そして司馬越との同盟に対抗するために、南匈奴の左賢王・劉淵に協力を要請します。この際に五部に分割されていた匈奴の兵力を「結集して」戦うように、と命令しました。
つまり「人数がとんでもないことになっていて蜂起されていたら怖いから各地に分散させとこう」という異民族を、わざわざ終結……おっと、集結させたのですね。これはとんでもないやらかしでしょう。
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その結果
司馬エイから各地に散らばっている異民族を集めて良いという許可を貰った劉淵、当然のように司馬エイにそのまま協力するということはなく、戦いに参戦しないだけでなくそのまま「漢」の建国をしてしまいました。
この時点で劉淵は司馬エイの配下でも何でもなく、国を率いるトップになってしまったのです。
尚、司馬エイは乱による忙しさにかまけて自分で統治をほとんどやっていなかった成都でも別の異民族に蜂起され、建国をされています。異民族を甘く見たかどうかは分かりませんが、軽んじた結果であると言わざるを得ないでしょう。
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自らの立場を考えずに……
この時点で、司馬穎は丞相です。そして皇帝の弟でもあります。そんな人物が命令で「各国に散らばっている異民族を集めて武装させて軍に加わるように」と命令しました。これは十分な大義名分になります。
命令された劉淵からすれば、どれだけ軍を集めて武装させても「司馬エイ殿の命令」で許されるのです。だからこそ誰も邪魔できず、劉淵は漢の建国に踏み切れたのです。自分の身を守るためとはいえ、司馬エイのやったことは晋王朝として最悪の一手だと言わざるを得ません。
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