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蜀の実権を握り、はやる姜維を抑える
諸葛亮が亡くなった後は「蔣琬」が蜀の政治を担当しますが、246年に彼が亡くなると、費禕が国政を担当することになりました。費禕は北伐などの積極策は極力抑え、内政に力を注いでいました。
しかし軍事を担当する姜維は常に北伐を大軍で行おうとしていましたが、費禕は「我々の才能は丞相(諸葛亮)に遠く及ばない。今は国を保ち民を治め、能力ある人物の出現を待つべきだ。」と、姜維には1万人の兵しか与えなかったといいます。
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費禕の死因とは?
蜀を守っていた費禕でしたが、その死は悲劇的なものでした。魏から降伏してきた「郭循」という武将に宴会の場で刺殺されてしまったのです。郭循はその場で殺されますが、のちに彼は魏に表彰されていますので、わざと降伏させ敵将の命を狙ったとも考えられます。
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費禕の死後
費禕が亡くなった後、蜀の実権は先述の姜維が握ることになります。彼は費禕と違い積極策を取り、連年の北伐を大軍で行います。しかし、成果はあまり上がらず、国力を疲弊させるばかりでした。
一方、朝廷内では劉禅を監視する董允も亡くなっており、劉禅は宦官の「黄皓」を信頼してしまい、政治も混乱してしまいました。
そこに魏が侵攻し、劉禅はあえなく降伏。蜀は滅亡してしまいます。費禕の死からわずか10年足らずで蜀は滅びてしまうのです。彼の死は蜀の滅亡を早めたといってもいいのではないでしょうか。
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三国志ライターみうらの独り言
歴史に「もし」は禁物とよく言われますが、もし費禕がもう少し生きていたら、蜀も違った展開を迎えていたのかもしれませんね。でも人物が一人亡くなっただけで傾いてしまう国はいずれにせよ、命運は尽きていたのかもしれません。
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