菩提僊那(ボーディセーナ)とは?奈良時代の日本にインドからやってきた僧侶

2022年3月29日


 

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遣唐船(奈良時代)

 

今回は、奈良時代の平城京(へいじょうきょう)の都に渡来した、外国人の僧侶たちのお話です。奈良時代の日本は、中国大陸の「唐(大唐帝国)」との交流、つまり、「遣唐使(けんとうし)」の使節団の派遣が活発にされていたこともあり、唐の方からも人流が生まれた時代でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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国際文化都市だった平城京

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

そして、この時代、幾人も渡来僧と呼ばれる、外国人の僧侶たちが、来日し、平城京の都に住んでいました。中国大陸、朝鮮半島、ベトナム、そして、インドからも。ですから、この時代の奈良の都は、仏教を通して、国際交流が活発な都市だったと言えるでしょうか。

 

具体的には、以下の僧侶たちが挙げられます。

 

道璿(どうせん)

【中国(唐)の出身】

仏哲(ぶってつ)

【チャンパー王国〔漢名:林邑(りんゆう)・現在のベトナム〕の出身】

審祥(しんじょう)

新羅(しらぎ)(朝鮮半島の統一王朝)の出身との説と、元は日本生まれで新羅に渡って帰国した留学僧との説もあり】

 

そして、ボーディセーナと呼ばれた南インド出身の僧侶です。

今回は、特に、このボーディセーナについて詳しくお話していきます。

 

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ボーディセーナか菩提僊那か?

 

それでは、まず、ボーディセーナという呼び名について少し説明します。日本では、これまで、菩提僊那(ぼだいせんな)と記載、発音されてきたことが多かった印象です。ただ近年は、出身地の古代インド語のサンスクリット語に合わせて発音し、「ボーディセーナ」と呼ぶことが目立ってきているようです。

 

ここでも、当人の出身地域の言語を尊重し、また、生前当時に、そのように呼ばれたのではないかと思いを馳せたい気持ちもあり、「ボーディセーナ」を採用し、解説していきたいと思います。

 

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はじめての平安時代

 

 

ボーディセーナの記録は少ない?!

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『南天竺婆羅門僧正碑并序』これがボーディセーナの最も古い記録と考えられている文です。

 

ボーディセーナの弟子の「修栄(しゅうえい)」が、師匠の死後、その偉業を後代に伝えるために、形像を造らせたそうなのですが、そこに碑文も刻ませました。その序文が『南天竺婆羅門僧正碑并序』だということです。

 

後に、江戸時代に下ると

卍元師蛮(まんげんしばん)」という僧侶が記した、『本朝高僧伝(ほんちょうこうそうでん)』という書物が登場します。これは、日本の歴代の高僧たちについて記した伝記なのですが、その中に、ボーディセーナの僧伝『南天竺沙門菩提仙那伝』があるのです。これは、先の碑文を元にして作成されたというのです。

 

このおかげで、現代を生きる私たちが、ボーディセーナの存在を知ることができるのです。

 

どのような人物だったのでしょうか?

探っていきましょう。

 

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武則天

 

 

謎多きボーディセーナの生涯

 

ここからはボーディセーナの経歴についてお話します。

 

生年は704年頃とする説が目立ちますが、正確には分かっていないようです。出身地は、南インド出身ということですが、正確な位置や地域を確認できる資料が現在のところでは、見当たりません。元々、バラモンの身分(ヒンドゥー教)だったということは分かっています。それがいつの頃か仏教を学ぶようになっていったようです。

 

姓は、「バーラドヴァージャ」や「婆羅遅(ばらぢ)」と言われています。

 

出身地の南インドから中国(唐)を経由して、九州の大宰府(だざいふ)に到着しました。その後、瀬戸内海経由で、海路を進み、難波津(なにわのつ)(現在の大阪湾・大阪市中央区付近)に上陸し、「行基(ぎょうき)」に迎えられ、陸路で奈良の平城京の都に入っていったということです。

 

その後、大安寺(だいあんじ)という寺院に滞在し、行基と親交を深めたと伝わっています。行基からは、大仏建立の指導者には、ボーディセーナこそが相応しいと太鼓判を押されるほどでした。

 

そして、行基は、大仏完成を目にすることもなく、此の世を去ってしまいます。その後、ボーディセーナは、751年に「僧正(そうじょう)」という僧侶の中での最高位につきます。752年、東大寺の大仏の完成時の儀式を取り仕切る「導師」の立場になりました。

 

760年には、此の世を去っています。ボーディセーナの死後、東大寺では、「四聖」と呼ばれる、大仏建立に貢献した人物たちを選定しましたが、その中に、このボーディセーナを加えているのです。

 

つまり、

聖武天皇(しょうむてんのう)

②行基

良弁(ろうべん)(東大寺を開山した僧侶)

そして、④ボーディセーナの四人なのです。

 

ですから、奈良時代の日本では、超有名人の存在だったと言えるでしょうか。

 

ただ、現代において、生前のボーディセーナの確実な軌跡を知る資料が少ないのが現状です。

 

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ほのぼの日本史

 

 

おわりに

 

しかし、ボーディセーナが、これまでに物語に取り上げられたことは幾度かありました。次回は、その物語を紹介していきます。お楽しみに。

 

 

【参考文献】

・日本の名僧 2巻『民衆の導者 行基』

速水侑(はやみたすく) [編]・吉川弘文館)

・『東大寺のなりたち』

森本公誠(もりもとこうせい) 著・岩波新書)

大安寺WEBサイト

・論文『大仏を開眼した菩提僊那(ボーディセーナ)』

小島裕子(こじまやすこ) 著・鶴見大学仏教文化研究所紀要)

・論文『日本における天竺認識の歴史的考察』

石﨑貴比古(いしざきたかひこ) 著・東京外国語大学博士学位論文)

・奈良テレビチャンネル

「菩提僊那」

 

ながら日本史

 

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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