三国志の最後はどうなるの?どの国が勝つ?三国志の残念な結末を解説

2022年3月29日


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曹操に立ち向かう劉備と孫権

 

英雄たちが綺羅星のごとく登場する三国志。物語の前半を彩った英雄たち、曹操(そうそう)劉備(りゅうび)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)…それらの英雄たちが世を去って五十有余年。雄大な物語にも終わりの時は訪れます。

 

曹操に仕える徐晃

 

果たして勝者は誰なのか?

今回はその三国志の結末について調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国の拮抗

天下三分の計を唱える諸葛亮孔明

 

三国志は大きく分けて三つに分かれます。曹操・劉備・関羽・張飛らが活躍する時代、諸葛亮(しょかつりょう)が孤軍奮闘する時代、そしてその後…その中でも特に前二つの時代は、三国鼎立から拮抗の時代と言えます。

魏王に就任する曹操

 

今更説明する必要はないかもしれませんが、三国とは曹操の・孫権の呉・劉備の蜀の三ヶ国のことを言います。曹操が魏公に封じられたのが建安(けんあん)18年(213年)その後魏王に封じられたのが建安21年(216年)です。

 

漢中王になる劉備

 

それを受けて、劉備が漢中王を自称したのが建安24年(219年)ですので、その辺りが三国の鼎立と言えます(ちなみに呉の孫権は呉王を自称したことはなく後に曹丕(そうひ)から呉王に封じられています)。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

三国鼎立とともに荊州(けいしゅう)を巡る呉・蜀の衝突によって関羽が死亡すると、後を追うように曹操・張飛・劉備が立て続けに逝去。一つの時代が終わりを告げます。

 

呉の諸将を論破する諸葛亮孔明(セリフなし)

 

古き英雄たちが去った後、先帝劉備の遺志を受けて、諸葛亮が打倒魏を掲げ北伐を繰り返します。

 

夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

建興(けんこう)5年(227年)から建興12年(234年)の7年間に及ぶ全5回の北伐の末に諸葛亮は陣没。ここに蜀は代えの利かない偉大な人物を失うこととなったのです。

 

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魏の内部分裂と滅亡

司馬懿

 

稀代の天才諸葛亮の北伐を防いだ後、魏は内部で徐々に司馬氏が力をつけていきます。諸葛亮の野望を事実上打ち破った将軍司馬懿(しばい)は、その後も各地で起こる反乱や呉の進軍を阻み、魏国の天下が盤石なものとなるよう務めます。

 

曹叡

 

しかし魏の3大皇帝であった曹叡(そうえい)が死去すると、後継の曹芳が即位します。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

曹叡は司馬懿と曹爽(そうそう)に後見を託しますが、曹爽は司馬懿を権力のない名誉職である『太傅(たいふ)』に任じようと画策するなど、権力を自分に集中させるように動きます。

 

司馬懿と曹爽

 

次第に権力をほしいままにし、ついには皇帝の意思までも蔑ろにする曹爽の様子を見て、危機感を感じた司馬懿は、病と偽り隠居の身となりました。

 

曹爽の配下にいる王渾

 

曹爽はますます権力をほしいままにし、国家転覆を企てますが、司馬懿が隠居したとはいえ健在であることから、司馬懿への警戒を怠りませんでした。そこで司馬懿は一計を案じました。

 

年を取った司馬懿

 

曹爽の使者が自宅を訪ねてきたときに、あえて衣服をはだけて着、粥を食べる際にも口元からダラダラとこぼしてみせ、耳が遠くなったかのように何度も使者の言うことを聞き間違えたり、同じ話を何度もしたりと、まるで耄碌(もうろく)しているように装ったのです。

 

司馬懿の墓

 

そうとは知らず、使者から司馬懿の様子を聞いた曹爽は、「もう司馬懿は長くなく、警戒に値しない」と判断し、備えを怠りました。

 

司馬懿

 

ある日、曹爽が一族と共に出かけると、司馬懿は一気に宮城を制圧。太后の詔勅を受けて曹爽を逮捕・軟禁し、死罪に処します。

 

晋王朝を作った司馬炎

 

これにより魏国は司馬懿以下、司馬一族による専横の末、司馬懿の孫である司馬炎に帝位を禅譲することとなるのです。

 

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晋王朝のマイナー武将

 

 

巨星なき蜀の衰退

孔明亡き後に蜀の政治を担う費禕

 

諸葛亮が死亡すると、蜀は大規模な北伐を控え、内政に勤しんでいました。特に諸葛亮の後任として大将軍になった費禕(ひい)は「我々の力は諸葛亮に遥かに及ばない。

 

北伐したい姜維を止める費禕

 

その諸葛亮でさえ北伐を成功させることはできなかったのであるから、我々に至っては問題外である。今は内政に力を入れ、外征は人材の育成を待ってからにすべし」と言ったと『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』にはあります。

 

費禕の没後、北伐の準備に取り掛かる姜維

 

しかしその費も死ぬと、蜀は北伐推進派の姜維(きょうい)を大将軍に起用し大規模な北伐を続け、国力を疲弊させていきます。

 

黄皓

 

姜維が北伐に明け暮れる中、皇帝劉禅(りゅうぜん)の側近に黄皓(こうこう)という宦官(かんがん)がありました。彼は劉禅の寵愛を受け、姜維からの援軍の要請を幾度も握りつぶし権力をほしいままにします。

 

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

263年、魏の実権を握った司馬昭(しばしょう)(司馬懿の次男)が蜀征伐を開始し、姜維らは剣閣(けんかく)という天然の要害で抵抗をしますが、別動隊が迂回路を取り蜀の首都「成都(せいと)」に攻め入り、劉禅は戦うことなく降伏。

 

降伏する劉禅

 

ここに蜀は滅亡しました・・・。

 

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蜀漢の滅亡

 

 

呉の分裂と衰退

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

かの有名な赤壁(せきへき)の戦いで曹操を打ち破り、前述のとおり関羽を打ち取り、夷陵(いりょう)の戦いで劉備をも打ち破った呉の孫権でしたが、蜀の諸葛亮に呼応する形で幾度かの北伐を慣行するも魏を打つことはできませんでした。

 

二宮の変に巻き込まれて皇太子から格下げされる孫和

 

孫権は晩年、皇太子である孫登(そんとう)が若くして亡くなると、三男の孫和(そんか)を太子に、四男の孫覇(そんは)(ろおう)に封じ、二人の間で後継者争いを勃発させてしまいました

 

後継者争いを放置する孫権

 

孫権は後継者争いに嫌気がさし、末子の孫亮(そんりょう)を寵愛し、太子孫和は廃嫡、孫覇には自死を言い渡し、結果後継者として孫亮に帝位を譲ることとしました。

 

陸遜

 

この後継者争いにより呉の国力は大きく疲弊し、有能な重臣たちも多く失うこととなりました。

 

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二宮の変

 

 

晋王朝の誕生と呉の滅亡

司馬炎の革衣を盗ませようとした司馬倫

 

265年。司馬昭の子、司馬炎(しばえん)が魏より禅譲を受け皇帝となり、晋王朝が誕生します。圧倒的な国力差を覆せるはずもなく、279年に晋は呉に20万という大軍を擁して侵攻。

 

破竹の勢いで呉を攻める杜預

 

後に『破竹の勢い』と称される猛攻の前に呉は滅亡。ここに、三国時代は終焉を迎えたのでした・・・。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

三つ巴の戦いを繰り広げた三国志。その三ヶ国ともに滅亡するという結末はなんだか空しさすら感じますね。しかし後世、この三国の英雄たちが消えることのない魅力を持っていたこと、そしてそれらが今もなお語り継がれていることは、私たちが証明しているといえるのではないでしょうか?

 

陰謀野望渦巻く八王の乱では生き残れなかった司馬乂

 

結局この後晋は分裂し中原はまた戦乱の時代を迎えることになります。そのお話もまた面白いものですので、興味を持った人はぜひ探してみてください。

 

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八王の乱

 

 

 

 

 

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歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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