三国志にも美人は良く出てきます。派生先の三国志演義ともなれば中国四大美女の一人である貂蝉も出てきますね。やはり歴史の陰には女アリ、ということでしょうか。はたまたどんなリアリストで冷徹な政治家たちも、美女がお好きということなんでしょうか?
今回はそんな美女の一人……かどうかは分かりませんが、ある種、現代に通じる評価をされた女性をご紹介したいと思います。それこそが張魯の母親、さあ、彼女はどんな人だったのでしょう?
この記事の目次
美魔女とは見た目より若い女性
さて皆様にちょっとお尋ねしたいことがございます。皆様は「美魔女」をご存知でしょうか?
だいぶ前に生まれた言葉で、一時期はこの美魔女と呼ばれる女性たちがブームにもなりましたね。これはとあるファッション雑誌が生み出した言葉で、言葉の意味としては「年齢という言葉が関係なくなるほど輝く容姿を持った女性」への言葉であり、それは逆転すると、年齢を重ねても美しくあろうとする心の大切さを意識して欲しい……というような感じで生まれた単語です。
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年齢不詳な女性も美魔女カテゴリ
とは言え、この言葉はどちらかというと別の意味で使われるようになりました。そう、魔女という言葉のイメージが先走ってしまったからでしょうか?
「年齢が良く分からない女性」
もっと言うと「実際にはかなりの高齢の女性のはずなのに大変若々しく美しい女性」を表すときの言葉として、美魔女、と使われるようになったのです。
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益州を支配しようとやってきた劉焉
さあさあ話は三国志に。ここは漢王朝もそろそろ末期の時代。腐敗しきった中央政権の場からは逃げ出して、朝廷の目の届かない土地で独立を企む野望満載な男がおりました。その名前は劉焉。
彼が目を付けたのは「天子の気あり」と予言された益州、後に蜀と呼ばれる土地です。彼は上手いことやって朝廷から離れたこの土地で、群雄割拠の時代の幕開けを果たして国を作ろうとしていたのでした。
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劉焉に五斗米道が接近する
益州にやってきた劉焉は、とりあえずはこの益州での立場を固めるべく動きました。もちろん良い政治を行うことも大事です。しかしその野望を忘れてはいけません、朝廷から離れた場所で何とか上手いことやらなければならないのです。そしてそこで目を付けたのが、当時は三代目に代替わりをしていた五斗米道と言われる宗教集団でした。
朝廷から派遣された存在として頑張る中、裏では民衆に人気があるこの宗教と接触していたとされる劉焉ですが……その裏に、とある女性の陰がありました。
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張魯の母が劉焉を籠絡した
ここで劉焉と密接な行動を取っていたのが張魯の母親です。蜀書に記録にある通りならば、劉焉の家に頻繁に張魯の母親が出入りをしていたとか。そして張魯の母親は劉焉に取り入り、その縁から張魯は後に漢中を任されるようになったのです。まあここまでなら「美人な未亡人にやられたんだな」で終わるのですが……そこに面白い記述が。
蜀書によると「張魯の母親は少容」と書かれているのです。
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