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董卓が暴虐の限りを尽くせていた時代
さて時はまだ董卓が暴虐の限りを尽くせていた時代。父、司馬防は息子に今の内に家族を連れて故郷に戻るように、と命じました。
しかしこれが密告され、司馬朗は捕まって董卓の前に引き出されます。ですが董卓の問いかけに司馬朗は堂々とした態度で受け答えをしたので、董卓は司馬朗を評価し、他の者たちのように処刑されることは防げました。
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生き延びるために賄賂を贈った司馬朗
とは言え、董卓と対峙した司馬朗もまた、いずれ来るであろう董卓の身の破滅を直感していたと言います。ここで司馬朗は董卓の腹心たちに賄賂を渡し、一族を引き連れて故郷に逃げ帰りました。
このため、司馬一族は董卓の暴虐によって害を被ることを避けられたのです。しかしやはりこれは間違いなく、司馬朗は賄賂を渡していますね。
いわゆる袖の下と言う奴です!
ヒレツ!アッカン!
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とは言っても
と、わざとらしく騒ぎ立ててみましたが、当然ながら当時は賄賂は横行していました。身分すら金を出せば買えた時代です。ましてや司馬朗の場合は、自分一人だけではなく、一族の命運すらかかっていました。
そんな状況であれば、時として使えるものは使うのが賢く生きなければならないものの責務というものでしょう。寧ろここで生き延びておいてくれたからこそ、後に各所で民が善政を受けることができ、魏の国力が増したと考えれば、賄賂も必要悪である面もあった、と言えると思いますね。
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三国志ライター センのひとりごと
繰り返しますが、賄賂は当時としては殆どあって当然のようなものでした。寧ろ賄賂を渡さなかったために起きた悲劇さえあったほどです。それを思えばここで自分の清廉潔白さにこだわることなく、賄賂を渡して上手に逃げることができたのはある種の才覚でしょう。
もしも、この時に賄賂を出し渋っていたら……考えてみると、小さいながらも大きく歴史は変わったかもしれません。
そう考えると……ちょっと面白いかもしれませんね?
どぼーん。
参考文献:魏書武帝紀注曹瞞伝 司馬朗伝
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