司馬朗と言えば、司馬懿のお兄さん。後に主に息子たちがやらかしてしまうので、簒奪者、野心家のイメージが先行してしまう弟と対照的に、魏の忠臣として良く働き、残された逸話の数々からたいそうな人格者であったと言われています。
しかしそんな人格者にも実は黒い一面があった!?
そこで今回は司馬朗と賄賂のお話をちょっといたしましょうか!
この記事の目次
司馬防の長男・司馬朗
司馬朗は司馬懿の兄であり、司馬防の長男になります。司馬防は大変厳格な父親であり、司馬兄弟たちはとても厳しく育てられました。このためか司馬朗は早熟で、幼い頃から物事をはっきりと話す、賢い子でした。
幼い頃からそうであったのですから、成長すればなおのこと。そしてこのはっきりと物事を話すことのできる胆力が後の彼を助けるのですが、それはまた後で。
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司馬朗の疑惑
司馬朗は22歳の時に曹操から召し寄せられ、司空掾属に任ぜられました。これは嘗て曹操が若い頃、司馬防に洛陽北部都尉に起用して貰った縁もあったのでしょう。後に曹操は魏王になった時も司馬防を呼んで一緒にお祝いしたりしているので、感謝していたのかもしれませんね。
まぁこの時に司馬朗の年齢詐称疑惑も挙がっているのですが、それはまあ置いといて。
この後も司馬朗は成皋県令など、地方官吏を歴任していきますが、病気のために一時職を辞しています。弟と違って別に曹操から殺されるようになるエピソードもないのがちょっと面白い所でもありますね。
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曹操に評価される司馬朗
後、体長が……じゃなかった、体調が良くなった司馬朗は職務復帰。堂陽の県令に復帰することになるのですが、司馬朗の政策は大変寛大で、領民から良く慕われました。
当時としては罰則として鞭打ちや棒打ちなどがありましたが、司馬朗の領内ではこれらの刑罰を用いる必要がないほど、領民は禁を犯すことなく過ごしていたと言います。これらの手腕は曹操に高く評価され、後に丞相主簿として働くことになりました。
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人格者ゆえの司馬朗の悩み
そして中央で働いたのち、次はエン州刺史として働き、ここでも良く人々から慕われました。しかし後に呉との戦いの中で疫病が流行り、司馬朗は自身の薬も他の兵士に分け与えて命を落としました。享年47歳、父である司馬防よりも二年前に亡くなったのです。
遺言として司馬朗は麻の服と頭巾のみと言う質素な衣服で弔いを望み、エン州の人々は彼の死に涙を流さない者はいなかったと言われるほど広く慕われていたと言います。……そんな人格者、清廉潔白であり汚点などひとかけらもなさそうな司馬朗ですが、実は嘗て、賄賂を用いたという話があるのです。
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