三国志には張飛のように部下に対してパワハラがヒドイ人や、関羽のように同僚や上司に対して態度が厳しい人など、絶対に部下や同僚になりたくない問題児が多くいます。
しかし、逆に部下に気を使い有休も気前よく使わせてくれる理想の上司もいたのです。今回は三国志で上司にしたいナンバー1の孟康を紹介しましょう。
この記事の目次
郭皇后の姉の子として引き立てを受ける孟康
孟康は字を公休と言い、幽州安平の出身です。曹丕の妃である郭皇后の姉妹が孟康の親戚だったので、孟康も九親として引き立てを受け散騎常侍の位に就きました。
当時、散騎常侍は優秀な人が就く習わしなので、人々は孟康が家の七光りで出世したとして侮り阿九と呼んでいました。阿は「ちゃん」という意味で「家の七光りちゃーん」と馬鹿にした呼び方です。
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家の七光りを克服しようと努力する
しかし、孟康は阿九と呼ばれても腐る事無く、暇な時間を利用して書物を読みました。孟康は頭が良かったので文章の才能がメキメキ上がり、見事な上奏文を書いてみせ、それまで孟康を阿九とバカにしていた人は孟康を見直したと言われています。
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弘農太守となり善政を敷く孟康
正始年間(240年~249年)孟康は宮廷から出向、弘農太守となり典農校尉を勤めました。孟康は、清廉な態度で政治をおこない善行を褒め称えると共に、善行を出来ない人に憐れみをかけ裁判沙汰を減らしつつ、住民の希望に沿って色々なトラブルを解消し、同時に住民の利益になるようにしました。
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役人にも気を使いまくる孟康
当時、弘農郡には二百名の役人がいましたが、正月にはきちんと休暇を与え、普段も1/4ごとに休暇を与え家に帰していました。
孟康は一度約束した事は引き延ばす事はなく、外出する時でも、ふらっと出る事はなく、通り道の督郵には事前に連絡して、池や河の水を処理させて督郵が恥をかかないように配慮しました。
また、皇后に連なる身分の自分が巡行すると周囲が過剰に気を遣う事を恐れて、無理に敬意を表す事がないように通告し、馬の草刈りで庶民が苦労しないよう外出する時には部下に鎌を持たせて通り道の草を刈り取って馬の餌にするなど気を配りました。
そして宿舎に泊まらずに樹の下に野宿し随行員も10人を超えないようにし、極力郡に負担をかけないように努力しています。
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