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孟康とはどんな人?上司にしたい人ナンバー1!周囲に気を配り過ぎた理由とは?

2022年7月26日


 

はじめての三国志_ページネーション

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孟康とはどんな人?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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公私混同は一切しない

宋銭 お金と紙幣

 

弘農郡は、洛陽への通り道で街道が入り組んでいて多くの有力者が訪問しましたが、孟康は法律に合致しない限りは官給品(かんきゅうひん)を支給せず、知り合いが尋ねてくると自分のポケットマネーでもてなし、役所から費用を出させませんでした。

 

弘農郡の人々は最初、孟康が有能なのは知っていましたが、年が若いし太守は初めてなので、能力を危ぶんていました。しかし蓋を開ければこのように素晴らしいので、庶民も役人も大喜びし孟康を讃える歌を歌っていたそうです。

 

西暦254年、孟康は渤海太守(ぼっかいたいしゅ)から召し出されて中書令(ちゅうしょれい)になり、後に中書監(ちゅうしょかん)に転任しました。

 

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終わりが分からない孟康

内容に納得がいかないkawauso様

 

孟康には独立した伝がなく、杜畿(とき)伝についた杜恕(とじょ)伝のさらに付録として突然登場します。その理由は杜恕が弘農太守を転任した後に、孟康が後任で入ったからであるようです。

 

しかし、このように郭皇后の親戚でありながら偉ぶらず、弘農郡に負担を掛けなかった孟康ですが、いつ死んだのか、その後どうなったのかが不明です。

 

また、こう言ってはなんですが、清貧(せいひん)であったとか、人民に負担を掛けなかったというのは、正史三国志では、特に事績がない人の為のテンプレートが多いです。孟康は優秀な人ではあったのでしょうが、それほど目立った功績を残す事はなかったので、こういう付録みたいな書き方になったのではないかと思います。

 

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郭皇太后の身内への厳しい監視

郭皇后(女性)

 

ただ、それを差し引いても孟康の僅かでも弘農郡に迷惑をかけてはいけないという、強迫観念にも似た態度には、なにかを恐れていたのではないかとさえ感じ取れます。

 

それで正史三国志を調べてみると、どうやら孟康の伯母に当たる郭皇后が身内の贅沢にかなり厳しかったようです。皇后は皇太后になってからは明帝曹叡(めいてい・そうえい)にも遠慮なく贅沢を(いまし)めているので、当然身内に対してはもっと厳しい締まり屋でした。

 

例えば、孟康の兄弟らしき孟武(もうぶ)が故郷に帰って(めかけ)を求めると聞いた郭皇后は「今は兵戸で嫁不足が深刻なのに、妾など持つべきではない兵戸に譲るべきです」と反対し断念させています。

 

曹操のお墓(曹操高陵)

 

また孟武が母の死後、葬儀を盛大にし副葬品を多く入れようとすると、また郭皇太后から横槍が入り「厚く葬ると盗掘(とうくつ)に遭います。文帝(曹丕)の墳墓(ふんぼ)を見習いなさい」とストップがかかりました。

 

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郭皇后(女性)
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外戚として悪く見られないよう気を遣って生きた

呉懿と孔明

 

孟康は、このような郭皇太后の「贅沢はダメ!何故ならウチらは外戚だから!ちょっとでも贅沢すると絶対悪く言われるから!」を忠実に守り、その模範になろうとしたのかも知れません。

 

そうでなくても、最初に阿九と周囲に(さげす)まれたわけですから、孟康は将来的に郭皇太后が亡くなった後まで考えて、清貧を貫き周囲に気を使いまくったのでしょう。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

外戚と言うと、後漢最悪の外戚、梁冀(りょうき)のような徹底的な悪をイメージしますが、一方では孟康のように「外戚に生まれてすみません。出来る限り質素に暮らしますので、大目に見て下さい」と小さくなって生きているような人もいて面白いですね。もっとも、これは郭皇后が非常な締まり屋で身内に贅沢を許さなかった影響が一番大きいとは思いますが…

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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