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公私混同は一切しない
弘農郡は、洛陽への通り道で街道が入り組んでいて多くの有力者が訪問しましたが、孟康は法律に合致しない限りは官給品を支給せず、知り合いが尋ねてくると自分のポケットマネーでもてなし、役所から費用を出させませんでした。
弘農郡の人々は最初、孟康が有能なのは知っていましたが、年が若いし太守は初めてなので、能力を危ぶんていました。しかし蓋を開ければこのように素晴らしいので、庶民も役人も大喜びし孟康を讃える歌を歌っていたそうです。
西暦254年、孟康は渤海太守から召し出されて中書令になり、後に中書監に転任しました。
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終わりが分からない孟康
孟康には独立した伝がなく、杜畿伝についた杜恕伝のさらに付録として突然登場します。その理由は杜恕が弘農太守を転任した後に、孟康が後任で入ったからであるようです。
しかし、このように郭皇后の親戚でありながら偉ぶらず、弘農郡に負担を掛けなかった孟康ですが、いつ死んだのか、その後どうなったのかが不明です。
また、こう言ってはなんですが、清貧であったとか、人民に負担を掛けなかったというのは、正史三国志では、特に事績がない人の為のテンプレートが多いです。孟康は優秀な人ではあったのでしょうが、それほど目立った功績を残す事はなかったので、こういう付録みたいな書き方になったのではないかと思います。
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郭皇太后の身内への厳しい監視
ただ、それを差し引いても孟康の僅かでも弘農郡に迷惑をかけてはいけないという、強迫観念にも似た態度には、なにかを恐れていたのではないかとさえ感じ取れます。
それで正史三国志を調べてみると、どうやら孟康の伯母に当たる郭皇后が身内の贅沢にかなり厳しかったようです。皇后は皇太后になってからは明帝曹叡にも遠慮なく贅沢を誡めているので、当然身内に対してはもっと厳しい締まり屋でした。
例えば、孟康の兄弟らしき孟武が故郷に帰って妾を求めると聞いた郭皇后は「今は兵戸で嫁不足が深刻なのに、妾など持つべきではない兵戸に譲るべきです」と反対し断念させています。
また孟武が母の死後、葬儀を盛大にし副葬品を多く入れようとすると、また郭皇太后から横槍が入り「厚く葬ると盗掘に遭います。文帝(曹丕)の墳墓を見習いなさい」とストップがかかりました。
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外戚として悪く見られないよう気を遣って生きた
孟康は、このような郭皇太后の「贅沢はダメ!何故ならウチらは外戚だから!ちょっとでも贅沢すると絶対悪く言われるから!」を忠実に守り、その模範になろうとしたのかも知れません。
そうでなくても、最初に阿九と周囲に蔑まれたわけですから、孟康は将来的に郭皇太后が亡くなった後まで考えて、清貧を貫き周囲に気を使いまくったのでしょう。
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三国志ライターkawausoの独り言
外戚と言うと、後漢最悪の外戚、梁冀のような徹底的な悪をイメージしますが、一方では孟康のように「外戚に生まれてすみません。出来る限り質素に暮らしますので、大目に見て下さい」と小さくなって生きているような人もいて面白いですね。もっとも、これは郭皇后が非常な締まり屋で身内に贅沢を許さなかった影響が一番大きいとは思いますが…
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