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輔匡とはどんな人?右将軍になり李厳に次ぐ地位を得たがマイナーな扱いの蜀名将

2022年8月1日


 

はじめての三国志_ページネーション

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輔匡とはどんな人?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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輔匡は西暦241年以前に死亡

曹操のお墓(曹操高陵)

 

楊儀の季漢輔臣賛は、西暦241年以前に亡くなった人の記録なので、この年に存命している人、(例えば姜維や蔣琬(しょうえん))は記載されていません。しかし、輔匡は記載されているという事は241年以前に死去した事になります。

 

輔匡は西暦170年前後の生まれと考えられ、だとすると最長で70歳頃まで存命していた事になり、当時としては長生きした人物という事です。

 

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輔匡が三国志で地味な理由

三国志演義_書類

 

輔匡が地味な理由は、やはり三国志演義に登場しないからでしょう。

 

三国志演義の作家 羅貫中

 

それは羅貫中(らかんちゅう)がエコひいきしたというよりも、あまりにも記述が少なく、話を膨らませるには向かない人物だったという事かも知れません。

 

せめて、諸葛亮の北伐に参加していれば、もう少し名前が出て、見せ場のひとつも与えられたでしょうが輔匡は北伐に参加した形跡がなく、やはり巴郡に留まり異民族を懐柔(かいじゅう)したり、討伐する任務を真面目にこなしていたのでしょう。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は官位が李厳に次ぐ実力者でありながら、三国志演義に登場しないばかりにマイナーな人物として、知る人も少ない将軍、輔匡について解説しました。

 

輔匡と似たような存在に趙雲に次ぐ活躍をしながら、やはり三国志演義には登場しないので地味な扱いの陳到(ちんとう)がいます。誰かに次いで2番というのは記憶に残りにくく、メジャーになれない宿命なのでしょうか?

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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