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輔匡とはどんな人?右将軍になり李厳に次ぐ地位を得たがマイナーな扱いの蜀名将

2022年8月1日


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過労死する諸葛孔明

 

魏や呉に比較して人材不足とされる蜀。

 

しかし、そんな人材不足の蜀には、三国志演義に登場しないばかりに能力はあっても無名という人材がまだまだいました。今回は才能も地位も李厳に次ぐにもかかわらず、記述が少なく知る人も少ない輔匡(ほきょう)を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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蜀漢の中核襄陽組の1人・輔匡

輔匡 三国志の将軍

 

輔匡は劉備の入蜀後に蜀漢の中核勢力になった荊州襄陽(けいしゅうじょうよう)の人です。劉備が益州を平定した後で、輔匡は巴郡太守(はぐんたいしゅ)に任命され西暦222年の夷陵の戦いにも参加。趙融(ちょうゆう)廖化(りょうか)と個別の陸軍を指揮しながら戦います。

 

陸遜の火計に嵌ってしまい戦死する馮習

 

輔匡は武勇に秀で剛毅(ごうき)な性格だったので、馮習(ふうしゅう)張南(ちょうなん)傅彤(ふとう)が呉軍の追撃に遭遇し避けきれずに討ち死にしていく中で生き残り、無事に巴郡に帰還しました。

 

敗戦のショックで病気になり白帝城に留まった劉備ですが、輔匡も成都には帰還せずに巴郡太守、あるいは護軍(ごぐん)として劉備を守り続けたようです。この点を考えると、輔匡は劉備の信頼厚い人であったのかも知れません。

 

オンライン講義夷陵の戦い

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地位は李厳に次ぐ輔匡

李厳(李平)

 

とてもマイナーな輔匡ですが、その地位は李厳に次ぐものでした。劉備が死んで劉禅が即位すると、李厳が都護(とご)となり諸葛亮と共に蜀の将来を任されていますが、輔匡の地位は護軍で李厳の地位に次ぐ高いものです。

 

北伐で食料の輸送担当をした李厳

 

しかし、李厳はプライドが高い性分で、年下で共に劉備に降伏した費観(ひかん)以外とは、ろくに交際せず輔匡に対してもガン無視状態だったようです。この事は輔匡は知名度がないだけで、決して無能でも地位が低いわけでもない事実を教えてくれます。

 

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輔匡の性格は?

魏晋世語(書類)

 

輔匡には個人の伝記がありませんが、幸いに季漢輔臣賛(きかんほしんさん)という蜀の楊戯(ようぎ)が書いた蜀に貢献した人々の史料に輔匡が出てきます。

 

これによると輔匡の性格は、

 

曹植は軟弱ではなかった

 

輔匡には荒々しい強さがあり、監軍として忠義を尽くして努め、辺境に赴任して異民族討伐の任務に当たったとあります。劉備の死後、輔匡は鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に昇進し、その後右将軍(うしょうぐん)、そして中郷侯(ちゅうごうこう)に封じられました。夷陵の戦いのような潰滅(かいめつ)状態でも無事に撤退する事が出来た輔匡ですから、その武力と采配はかなり高いモノがあった事でしょう。

 

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五虎将軍ポストにいた輔匡

五虎大将軍b 関羽、張飛、馬超、趙雲、黄忠

 

輔匡が具体的に、どこに赴いて、どのような異民族を討伐していたかは不明ですが、右将軍は前後左右将軍の事で、以前には趙雲を除く五虎将軍が就任していたポストです。五虎将軍が存在していた頃に比較すれば、就任しやすくなっていたとはいえ、将軍として栄誉あるポストなのは疑いありません。

 

ちなみに五虎将軍亡き後の前後左右将軍には

 

前将軍 李厳鄧芝(とうし)
後将軍 姜維(きょうい)(降格人事)宗預(そうよ)
左将軍 呉懿(ごい)向朗(しょうろう)句扶(こうふ)
右将軍 諸葛亮(降格人事)高翔(こうしょう)、輔匡

 

このように実力ある人材がついています。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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