袁煕とはどんな人?後継者争いには無関心だったのに袁尚を庇ったのはなぜ?

2022年8月13日


 

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袁煕とはどんな人?

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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烏桓族を頼り遼西へ逃亡する袁煕

鳥丸族(烏桓族)侵入に頭を悩ます曹操

 

袁煕は袁尚と共に遼西の烏桓単于(うかんぜんう)楼班(ろうはん)を頼って逃れます。しかし、曹操は袁家の2人を見逃す気はありませんでした。

 

建安12年(207年)曹操は群臣の猛反対を押し切り遼西へ進軍。袁煕と袁尚は烏桓王蹋頓(とうとん)等と柳城で迎撃します。しかし曹操は重い輜重(しちょう)を捨て神速で行軍したために、烏桓族は完全に虚を突かれて敗れます。

 

蹋頓は殺され袁煕と袁尚は遼東の公孫康(こうそんこう)を頼って落ち延びました。

 

曹操の大苦戦白狼山の戦い

曹操
白狼山の戦いは曹操もちょっぴり後悔?

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宦官

 

 

曹操を恐れた公孫康に騙し討ちされる袁煕

公孫康

 

曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操の機嫌を取ろうと考え、2人を偽って歓迎しました。袁煕は公孫度が曹操と通じている事を疑いますが、袁尚は公孫康の軍を奪い取ろうと豪語し袁煕も弟の意見に従いました。しかし、公孫康の騙し討ちを防ぐことは出来ずに殺され、首級を曹操のもとへ送られることになります。

 

高順が呂布に疎んじられた理由07 高順

 

処刑直前、袁尚が寒がって(むしろ)を求めますが、袁煕は「首級(くび)が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と弟をたしなめ毅然としていたそうです。公孫康を頼ると決めた時にこういう最後が来る事を覚悟していたのかも知れません。

 

袁煕自身に子供があったかどうかは不明ですが、子孫は生き延びて袁氏の命脈を伝え、唐代において宰相袁恕己(えんじょき)を輩出したそうですが、本当に袁家の子孫かどうかわからず、自称に過ぎないかも知れません。

 

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全訳三国志演義

 

 

袁煕が曹叡の実父という説

曹叡

 

袁煕の妻は甄氏である事から、袁煕には曹叡の実父(じっぷ)の噂があります。

 

曹叡は景初(けいしょ)3年(239年)に36歳で死亡したと記され、逆算すると生年が建安9年(204年)となり、曹叡が当初特に曹丕から冷遇されたことなどもあり、曹叡の父は曹丕ではなく袁煕ではないかとも(ささや)かれているのです。

 

しかし、最初に書いた通り甄氏は冀州に住み、袁煕は幽州に単身赴任しているのに、どうして曹叡を成せるのか?という疑問が生じます。もっとも袁煕が一度も冀州に戻っていないとは言えないので、時々冀州に戻った時に甄氏とハッスルした可能性はあります。

 

曹丕

 

ただ、そんな疑いがあるなら曹丕は最初から曹叡を後継者にはしなかったでしょう。曹丕には曹叡以外にも男子はいますし、それがダメでも宗族から後継者を出すほうが、袁煕の血を引く曹叡よりはずっとマシだと考えると思います。

 

また正史三国志明帝紀では、曹叡の誕生を建安11年(206年)としていて、これが正しいなら、曹叡は鄴陥落の2年後に生まれた事になり、袁煕の子である可能性はなくなります。

 

曹叡の父が袁熈説

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三国志主要戦図一覧

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は自己主張が激しい袁紹の3人の子の中で一番おとなしい袁煕を取り上げました。Kawausoは袁煕が無能ではなく、袁家の混乱を深くしないために自らは後継者争いから距離を置き、勝利した側を補佐するつもりだったのではないかと思います。

 

しかし、長子袁譚が袁尚憎しで父の仇である曹操と組んだ段階で袁譚を見限り、袁尚を支える気になったのではないかと考えています。後継者は生母の家格から諦めていた袁煕ですが、名門袁家の一員というプライドは強く持ち、それが袁尚を救い、幽州豪族に見限られ己を滅ぼすことに繋がったのではないでしょうか?

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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