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烏桓族を頼り遼西へ逃亡する袁煕
袁煕は袁尚と共に遼西の烏桓単于(王)楼班を頼って逃れます。しかし、曹操は袁家の2人を見逃す気はありませんでした。
建安12年(207年)曹操は群臣の猛反対を押し切り遼西へ進軍。袁煕と袁尚は烏桓王蹋頓等と柳城で迎撃します。しかし曹操は重い輜重を捨て神速で行軍したために、烏桓族は完全に虚を突かれて敗れます。
蹋頓は殺され袁煕と袁尚は遼東の公孫康を頼って落ち延びました。
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曹操を恐れた公孫康に騙し討ちされる袁煕
曹操を恐れた公孫康は、袁煕・袁尚を斬って曹操の機嫌を取ろうと考え、2人を偽って歓迎しました。袁煕は公孫度が曹操と通じている事を疑いますが、袁尚は公孫康の軍を奪い取ろうと豪語し袁煕も弟の意見に従いました。しかし、公孫康の騙し討ちを防ぐことは出来ずに殺され、首級を曹操のもとへ送られることになります。
処刑直前、袁尚が寒がって筵を求めますが、袁煕は「首級が万里の旅に出るのに、なぜ今さら筵がいるのか」と弟をたしなめ毅然としていたそうです。公孫康を頼ると決めた時にこういう最後が来る事を覚悟していたのかも知れません。
袁煕自身に子供があったかどうかは不明ですが、子孫は生き延びて袁氏の命脈を伝え、唐代において宰相袁恕己を輩出したそうですが、本当に袁家の子孫かどうかわからず、自称に過ぎないかも知れません。
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袁煕が曹叡の実父という説
袁煕の妻は甄氏である事から、袁煕には曹叡の実父の噂があります。
曹叡は景初3年(239年)に36歳で死亡したと記され、逆算すると生年が建安9年(204年)となり、曹叡が当初特に曹丕から冷遇されたことなどもあり、曹叡の父は曹丕ではなく袁煕ではないかとも囁かれているのです。
しかし、最初に書いた通り甄氏は冀州に住み、袁煕は幽州に単身赴任しているのに、どうして曹叡を成せるのか?という疑問が生じます。もっとも袁煕が一度も冀州に戻っていないとは言えないので、時々冀州に戻った時に甄氏とハッスルした可能性はあります。
ただ、そんな疑いがあるなら曹丕は最初から曹叡を後継者にはしなかったでしょう。曹丕には曹叡以外にも男子はいますし、それがダメでも宗族から後継者を出すほうが、袁煕の血を引く曹叡よりはずっとマシだと考えると思います。
また正史三国志明帝紀では、曹叡の誕生を建安11年(206年)としていて、これが正しいなら、曹叡は鄴陥落の2年後に生まれた事になり、袁煕の子である可能性はなくなります。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は自己主張が激しい袁紹の3人の子の中で一番おとなしい袁煕を取り上げました。Kawausoは袁煕が無能ではなく、袁家の混乱を深くしないために自らは後継者争いから距離を置き、勝利した側を補佐するつもりだったのではないかと思います。
しかし、長子袁譚が袁尚憎しで父の仇である曹操と組んだ段階で袁譚を見限り、袁尚を支える気になったのではないかと考えています。後継者は生母の家格から諦めていた袁煕ですが、名門袁家の一員というプライドは強く持ち、それが袁尚を救い、幽州豪族に見限られ己を滅ぼすことに繋がったのではないでしょうか?
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