戯志才は郭嘉が登場する前に曹操の軍師を勤めていた人物です。非常に有能で曹操躍進の裏には戯志才の献策があったと思われますが早くに病死したようです。今回は名前以外、謎に包まれた戯志才を解説します。
この記事の目次
三国志に2人しかいない戯氏
戯志才は戯氏ですが、この戯という氏が大変に珍しく、三国志の時代では戯志才1人です。
もう少し時代をさかのぼると党錮の禁の時代に八及の張倹を匿い一族皆殺しの目にあった北海郡の侠客、戯子然がいるのみです。
さらに数百年時代を遡ると春秋時代、衛国太子荘公蒯聵の仲間に戯陽遫という人もいます。
荘公は、父霊公の夫人である南子を戯陽遫に殺害させようとしますが、戯陽遫が躊躇したので、何度も目配せしている間に南子に気づかれて衛国を出奔する事になりました。
衛国は河南の地にあり戯志才の故郷である豫洲潁川郡に近いので、戯陽遫は戯志才の先祖という事かも知れません。
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張倹を庇い族滅した戯子然の一族では?
仮に戯志才を、張倹をかばって族滅された戯子然の一族と仮定してみましょう。
もちろん、これだけでは珍しい戯氏を名乗る時代が近い2人に過ぎません。しかし、戯志才と戯子然には、もうひとつ共通点があるのです。戯志然がかばい族滅の憂き目をみた「八及」張倹は、多くの犠牲を払いながら党錮の圧政を生き延び、建安年間の初め衛尉として出仕します。
これはもちろん、曹操が許に献帝を迎えたので後漢の臣として出仕したのです。張倹はその後、曹操が魏王になり権力欲を隠さなくなったために幻滅し役人を辞めて郷里に引き籠ったとされ、まもなく84歳で死去しました。
ここで面白い共通点が浮かんできます。
戯志才が荀彧の推挙を受けたのも、曹操が献帝を許に迎えた頃なのです。
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張倹を逃がした侠のネットワーク
話は前後しますが、張倹が謀反の嫌疑をかけられて逃亡している時、彼を庇った人物として李篤という人物も登場します。彼は青州東萊郡の人で逃亡してきた張倹を受け入れて匿いました。
後漢書袁宏伝によると、李篤は張倹を北海郡の戯子然の元に送り込む事に成功しています。しかし張倹を庇った家は族滅の憂き目にあい、その数は数十家にもなりました。気軽に匿える相手ではなく、李篤と戯子然には命を懸けて張倹を守る決意があったと考えられます。
つまり、李篤と戯子然は侠の精神で繋がっていたと考えられ、中核には清流派人士のカリスマ、陳蕃が定めた三君八俊を守るという考えがあったと推測できるのです。
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八俊の1人荀昱がカギ
さて、李篤や戯子然が命に換えても守る覚悟だった三君八俊には、荀昱という人物がいます。この荀昱の弟に荀曇がいて荀曇の孫が荀攸でした。
荀攸と荀彧は一族ですから、「八及」張倹をかばった李篤にせよ次の戯子然にせよ、曹操軍重鎮で潁川郡の名士である荀彧と繋がっていく事が分かります。
推測ではありますが、戯志才は族滅された戯子然の一族の生き残りであり、自己犠牲精神により清流派人士グループでは高く評価されていて、荀彧によって引き立てを受け、張倹と同じ頃に曹操の軍師になったと考えられないでしょうか?
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