ボーディセーナが日本に来る決意をした理由は唐の玄宗皇帝に原因があった?

2022年9月12日


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ボーディセーナが日本に来る決意

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武周王朝を開いた武則天

周を建国する武則天

 

そして、高宗の死後、その皇后の「武則天(ぶそくてん)」が、皇帝になって「武周王朝」を開くと、その治世の十数年は、仏教を国教としたのです。但し、それにより、唐の国内秩序は乱れたという見方もあるのです。

 

荘厳華麗(そうごんかれい)な仏教寺院が、あちこちに建立されたり、怪僧と伝わる「薛懐義(せつかいぎ)」が登場し、その怪僧に皇帝の武則天は一時的にも惚れ込むような事態にもなったりしたようです。

 

さらに、「生類憐(しょうるいあわ)れみの(れい)」に似た、家畜類も含めた獣や魚類を殺生することも禁じたりするなど、極端から極端へと走る政策や行動が目立ったのです。【※以前の記事『仏教を優遇した武則天 ─女帝は弥勒菩薩(みろくぼさつ)を目指したのか? ─』も参考にしてください。】

 

仏教の目指す本来の姿ではなくなっていった印象でした。庶民の目線から見ても、贅沢・怠惰と緊縮が行ったり来たりするという、心身の汚れに拍車をかけた印象の強い時代に映ります。

 

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武則天

 

 



武則天の孫に当たる、6代皇帝「玄宗・隆基」

 

そんな状況を見ていたのが、武則天の孫に当たる、6代皇帝玄宗(げんそう)隆基(りゅうき)」です。玄宗は685年生まれです。武則天が皇帝に即位したのは690年で、死去したのは705年です。つまり、玄宗の子供時代の約十五年間は、武則天の皇帝時代だったということです。

 

現代日本で言えば、小学校に入学してから大学に入学直後くらいまでの期間ですから「学生時代」そのものになるのです。少年期と青年期でもあるので、学習能力が高い人物ならそれだけ、批判や肯定も含めて数多くのことを感じたのではないかと推測してしまいます。

 

その結果、玄宗は仏教を嫌悪し、あからさまに仏教を弾圧しないまでも、仏教を遠ざける政策をしていた可能性が高いと考えるのです。

 

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玄宗は道教に入れ込んだ皇帝

楊貴妃

 

その反動なのか、玄宗は道教に入れ込んだ皇帝としても伝わっています。(※ちなみに、老年の玄宗が惚れ込んだという「楊貴妃(ようきひ)」ですが、道教の道士だったという説もあるのです。)

 

とにかく、そのような事情で、仏教への風当たりの強さを肌で感じていたボーディセーナには、長安を離れたい心理が働いていたと考えられるのです。

 

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関帝廟

 

 

日本に対する期待

 

その一方、ボーディセーナが日本に希望や期待感を持っていたことも、これもまた事実だったと思えてきます。当時の日本は、まだ仏教国として発展途上であったでしょうが、今後に期待を持てる要素があったのではないでしょうか。

 

それでは、その日本へ期待できる要素は何だったのかを考えてみますと、①まずは、大仏建立の計画です。

 

日本で大仏を建立しようとする計画は、水面下では、既にこの頃(736年)にあった可能性もあると思います。(東大寺の大仏完成は752年です。)それにより希望を見出した可能性もあります。

 

しかし、それよりも次の事の方があり得ると考えるのです。②つまり、日本の名僧「行基」の存在を知っていたのでは?ということなのです。但し、行基の存在よりも前に、その行基の師匠にあたる、「玄奘」の弟子でもあった「道昭(どうしょう)」のことを知っていたから、その流れで行基も知り得た可能性はあるということなのです。

 

【※以前の記事『三蔵法師のモデルになった「玄奘」が日本にやってきていた?玄奘と日本の強い縁』も参考にしてください。】

 

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玄奘の弟子たちを知る子孫たちの動向

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

玄奘の弟子たちを知る子孫は、長安に幾人もいたことでしょう。しかも、玄奘にとっての道昭は、特に信頼できる弟子の一人だったと伝わっています。玄奘が信頼した、日本からの留学僧の道昭の逸話が、長安の仏教寺院の中で伝わっていた可能性はあるでしょうか。

 

ボーディセーナは、玄奘からの信頼の厚かった道昭の噂を耳にして、日本への期待を持った可能性はあったかもしれないのです。さらに、その弟子の行基の存在も、日本からの遣唐使と出会うことで、耳にしていた可能性はあると考えられます。

 

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元寇

 

 

おわりに

コーノヒロさん(はじめての三国志ライター)

 

すると、前回に取り上げた、『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』などに登場する、ボーディセーナ(菩提僊那)と行基の初対面の場面についての記述が、誇大妄想でもなく、的を射ているとも感じるのです。

 

つまり、初対面にも関わらず、旧知の仲のような対面だったという記述です。それは、玄奘と、その弟子の道昭が、仲人を引き受けてくれて、時代を越えて繋がったかのようなボーディセーナと行基との出会いだったと思えてきます。

 

ここでも、玄奘の影響力が感じられます。そして、ボーディセーナは、日本に対して真の仏教国への期待を膨らませていた可能性があるのです。

 

【了】

 

【主要参考文献】

 

・日本の名著2『聖徳太子(しょうとくたいし)』/「婆羅門僧正碑文」の章

中村元(なかむらはじめ)[責任編集]・中央公論社)

 

・論文『密教と道教の周辺』

宮崎忍勝(みやざきにんしょう) 著・1987年発行)

『東大寺のなりたち』

森本公誠(もりもとこうせい) 著・岩波新書)

 

・『則天武后』

外山軍治(とやまぐんじ) 著・中公新書 )

 

・『隋唐帝国』

布目潮?(ぬのめちょうふう) 著? /? 栗原益男(くりはらますお) 著 ・講談社学術文庫)

など

 

 

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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