この記事の目次
武周王朝を開いた武則天
そして、高宗の死後、その皇后の「武則天」が、皇帝になって「武周王朝」を開くと、その治世の十数年は、仏教を国教としたのです。但し、それにより、唐の国内秩序は乱れたという見方もあるのです。
荘厳華麗な仏教寺院が、あちこちに建立されたり、怪僧と伝わる「薛懐義」が登場し、その怪僧に皇帝の武則天は一時的にも惚れ込むような事態にもなったりしたようです。
さらに、「生類憐れみの令」に似た、家畜類も含めた獣や魚類を殺生することも禁じたりするなど、極端から極端へと走る政策や行動が目立ったのです。【※以前の記事『仏教を優遇した武則天 ─女帝は弥勒菩薩を目指したのか? ─』も参考にしてください。】
仏教の目指す本来の姿ではなくなっていった印象でした。庶民の目線から見ても、贅沢・怠惰と緊縮が行ったり来たりするという、心身の汚れに拍車をかけた印象の強い時代に映ります。
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武則天の孫に当たる、6代皇帝「玄宗・隆基」
そんな状況を見ていたのが、武則天の孫に当たる、6代皇帝「玄宗・隆基」です。玄宗は685年生まれです。武則天が皇帝に即位したのは690年で、死去したのは705年です。つまり、玄宗の子供時代の約十五年間は、武則天の皇帝時代だったということです。
現代日本で言えば、小学校に入学してから大学に入学直後くらいまでの期間ですから「学生時代」そのものになるのです。少年期と青年期でもあるので、学習能力が高い人物ならそれだけ、批判や肯定も含めて数多くのことを感じたのではないかと推測してしまいます。
その結果、玄宗は仏教を嫌悪し、あからさまに仏教を弾圧しないまでも、仏教を遠ざける政策をしていた可能性が高いと考えるのです。
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玄宗は道教に入れ込んだ皇帝
その反動なのか、玄宗は道教に入れ込んだ皇帝としても伝わっています。(※ちなみに、老年の玄宗が惚れ込んだという「楊貴妃」ですが、道教の道士だったという説もあるのです。)
とにかく、そのような事情で、仏教への風当たりの強さを肌で感じていたボーディセーナには、長安を離れたい心理が働いていたと考えられるのです。
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日本に対する期待
その一方、ボーディセーナが日本に希望や期待感を持っていたことも、これもまた事実だったと思えてきます。当時の日本は、まだ仏教国として発展途上であったでしょうが、今後に期待を持てる要素があったのではないでしょうか。
それでは、その日本へ期待できる要素は何だったのかを考えてみますと、①まずは、大仏建立の計画です。
日本で大仏を建立しようとする計画は、水面下では、既にこの頃(736年)にあった可能性もあると思います。(東大寺の大仏完成は752年です。)それにより希望を見出した可能性もあります。
しかし、それよりも次の事の方があり得ると考えるのです。②つまり、日本の名僧「行基」の存在を知っていたのでは?ということなのです。但し、行基の存在よりも前に、その行基の師匠にあたる、「玄奘」の弟子でもあった「道昭」のことを知っていたから、その流れで行基も知り得た可能性はあるということなのです。
【※以前の記事『三蔵法師のモデルになった「玄奘」が日本にやってきていた?玄奘と日本の強い縁』も参考にしてください。】
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玄奘の弟子たちを知る子孫たちの動向
玄奘の弟子たちを知る子孫は、長安に幾人もいたことでしょう。しかも、玄奘にとっての道昭は、特に信頼できる弟子の一人だったと伝わっています。玄奘が信頼した、日本からの留学僧の道昭の逸話が、長安の仏教寺院の中で伝わっていた可能性はあるでしょうか。
ボーディセーナは、玄奘からの信頼の厚かった道昭の噂を耳にして、日本への期待を持った可能性はあったかもしれないのです。さらに、その弟子の行基の存在も、日本からの遣唐使と出会うことで、耳にしていた可能性はあると考えられます。
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おわりに
すると、前回に取り上げた、『今昔物語集』などに登場する、ボーディセーナ(菩提僊那)と行基の初対面の場面についての記述が、誇大妄想でもなく、的を射ているとも感じるのです。
つまり、初対面にも関わらず、旧知の仲のような対面だったという記述です。それは、玄奘と、その弟子の道昭が、仲人を引き受けてくれて、時代を越えて繋がったかのようなボーディセーナと行基との出会いだったと思えてきます。
ここでも、玄奘の影響力が感じられます。そして、ボーディセーナは、日本に対して真の仏教国への期待を膨らませていた可能性があるのです。
【了】
【主要参考文献】
・日本の名著2『聖徳太子』/「婆羅門僧正碑文」の章
(中村元[責任編集]・中央公論社)
・論文『密教と道教の周辺』
(宮崎忍勝 著・1987年発行)
『東大寺のなりたち』
(森本公誠 著・岩波新書)
・『則天武后』
(外山軍治 著・中公新書 )
・『隋唐帝国』
(布目潮? 著? /? 栗原益男 著 ・講談社学術文庫)
など