この記事の目次
諸葛誕の子ども、その後
反乱を起こしたということで、諸葛誕の三族は皆殺しという処分を受けました。ただし前述したように、息子の諸葛セイは呉に送られており、その後は呉の武将の一人となります。
また司馬懿の四番目の息子、司馬チュウに嫁いでいた諸葛誕の娘もお咎めなしとされているのですが……実はこの二人の孫の司馬睿こそが、東晋初代皇帝。そう思うと運命とは不思議ですね。
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諸葛セイは晋に仕えなかった
そんな諸葛セイの逸話は、そこまで多くはありません。しかし呉に残された諸葛セイと、張悌の話は涙を誘うものです。これは晋が呉に攻め寄せて来た時のこと。呉の軍は総崩れとなり、諸葛セイは敗残兵をまとめて撤退しようとし、張悌に共に逃げようと使者を出しました。
しかし張悌はこれに応じず、諸葛セイは自ら張悌の元に行ってその袖を引っ張って撤退しようとしましたが、張悌はこれを拒否し「今日は私の死ぬ日である」と述べて呉に殉じる意思を伝えられ、諸葛セイは涙ながらにその場を離れることになります。
後に幼なじみであった晋の皇帝・司馬炎から復職を求められるも応じず、諸葛セイは死ぬまで晋の都の方に背を向けたままだったと伝えられています。この事から諸葛セイは忠孝の人として名を残すことになりました。
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狗とは功績があるものの意味
さて呉は虎を、蜀は龍を、魏は狗をと言いました。狗と言われると何とも良いイメージが湧きませんが、この「狗」について清末の歴史学者、余嘉錫はこの狗は「功ある者」の意味であり、諸葛誕は魏で十分に評価されていて、悪評ではなかったと言います。
確かに当時を見ても諸葛誕は名声があったことを踏まえると、狗は卑しい意味ではなく、忠犬的な例えであったのかもしれませんね。またその息子も国は違ったとは言え国からの恩義は忘れていない所を見ると、諸葛一族はそういう性質を持った者たちが多くいる一族だったのでしょう。
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三国志ライター センのひとりごと
諸葛誕、諸葛セイだけに留まらず、諸葛瑾、諸葛亮、共に国に忠義を尽くした人物です。ただ諸葛瑾、諸葛亮が深く信頼されて重用されたことを踏まえると、諸葛誕は魏では曹叡からは冷遇されてたと思われます。
これはどちらかと言うと能力の差ではなく、魏ではそういうことができるほど優秀な人材が溢れていたことの証明ではないかとも思われます。そう考えると、魏の諸葛誕は仕えるべき主には巡り合えないままだったのかな……とちょっとセンチメンタルになってしまう筆者でした。
どぼーん。
参考:魏書諸葛誕伝 呉書三嗣主伝孫晧伝
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