姜維は蜀(221年~263年)の将軍です。最初は魏(220年~265年)の将軍でしたが、諸葛亮の第1次北伐で降伏して、以降は蜀の将軍として従軍します。
さて、小説『三国志演義』で諸葛亮は姜維の母親を人質にして、彼に降伏をせまります。
やっていることは、徐庶の母親を人質にとった曹操と一緒です・・・・・・それでは史実はどうだったのでしょうか?
今回は正史『三国志』の姜維の降伏について解説していきます。
陳寿の『三国志』の姜維の降伏
まずは陳寿が執筆した正史『三国志』の姜維の降伏について。蜀の建興6年(228年)に諸葛亮は魏に対して第1次北伐を行います。この時、天水太守は部下の姜維・梁諸・梁虔・尹賞が謀反を企んでいると疑ったので逃亡して、上邽まで逃げました。
姜維たちは急いで太守を追いかけますが、城門を閉じて入れてくれません。仕方なく冀県まで戻るも、そこも城門を閉じていたので姜維たちは、やむを得ず諸葛亮に降伏しました。
姜維はその後、母と生き別れになります。つまり陳寿の『三国志』における姜維の降伏は、諸葛亮の計略ではなく上司の猜疑心により生じた想定外の事態でした。
魚豢の『魏略』による姜維の降伏
次は陳寿の『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『魏略』という書物に記載されている姜維の降伏。『魏略』は魏に仕えていた魚豢という人物が編纂した書物であり戦乱により散佚しました。しかし、中華民国時代に20分の1の復元に成功しています。
話が逸れたので戻しますが、『魏略』に記されている姜維の降伏は以下の通り。天水太守の馬遵(ばじゅん)は姜維や郭淮と一緒に西方から洛陽まで巡察していました。
すると諸葛亮が来たと報告が入ったので郭淮は上邽の守備に回ります。馬遵は民が混乱に紛れて反乱・降伏する可能性を考えて郭淮についていきます。
「お前太守なら自分の土地を守れよ!」と言いたくなりますけど先に進みます。
姜維は「お待ちください、馬遵殿」と止めますが、「うるせい、てめえも逆賊か!」と馬遵から逆ギレされて逃げられます。途方に暮れた姜維は残った上官の子脩と話し合った結果、冀県に戻ります。
ところが、冀県の民は降伏する気満々であり、姜維と子脩に降伏の使者の役目を押し付けます。こうして姜維は諸葛亮に降伏しました。
陳寿の『三国志』と内容に違いがありますが、共通しているのは想定外の降伏だったことです。
でも、降伏とはそんなものですね・・・・・・その後蜀は馬謖が負けて冀県も魏に奪還されました。
一方、姜維は故郷に戻るにも戻れません。この時、姜維の母と妻子は魏に捕縛されますが、姜維は不本意な投降をしたことを知っていた魏は彼の家族を殺さずに人質として生かしておきました。
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どっちの史料が正しい?
それでは『三国志』と『魏略』どちらが正しいのでしょうか?2つの史料を比べると登場人物の相違はありますが、結論は姜維が不本意な投降をしたことに変わりはありません。
裴松之は『魏略』に関して「本伝(姜維伝)と内容が違うよ」とケチをつけていますけど、おそらく陳寿が『魏略』以外にも複数の史料を確認して、その中から取捨選択した結果出来たのが、『三国志』姜維伝です。
2つの史料に相違があるのは当たり前のことです。『魏略』の執筆者の魚豢についての詳細なことは不明ですが、魏に仕えていたので魏の人物に関する情報を持っていたことは確かです。よって、筆者は『三国志』も『魏略』も正確なことを伝えていたと考えています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が姜維の降伏に関しての記事でした。今回とりあげた魚豢の『魏略』は「魏志倭人伝」との関連で昔から研究者の間で注目されている史料です。
また、魚豢は『魏略』に中に劉備と諸葛亮の有名な「三顧の礼」の異説も記しています。三顧の礼の異説に関しては、いつかまた解説します。
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