于禁は魏(220年~265年)の将軍です。活躍時期は後漢(25年~220年)が多いので、後漢の将軍が正しいと思います。
今回は正史『三国志』の于禁の生涯に関して、記述したいと思います。
曹操に従軍して昇進する于禁
初平3年(192年)に青州で黄巾賊の残党が暴れました。兗州刺史の劉岱と部下の鮑信は討ち死にしました。
当時、戦死した鮑信の推薦で信任の兗州刺史になっていたのが曹操です。
曹操は黄巾賊の残党を討伐して、自分の親衛隊に入れました。この親衛隊を「青州兵」と言います。
鮑信に従って生き残った于禁は、自然に曹操の部下になりました。翌年の曹操の徐州侵攻では城を攻め落として昇進しました。
また、呂布との戦いでも活躍しました。
出来る男 于禁!
建安元年(196年)に曹操は張繍を攻めて降伏させました。ところが、これは罠であり間もなく張繍は叛旗を翻しました。
この張繍の反逆行為により、曹操は大打撃を受けて敗北しました。また、息子の曹昴・甥の曹安民・部下の典韋が戦死しました。敗北した曹操は撤退しました。
ところが撤退の時に親衛隊の青州平が略奪を働く事件を起こしました。この時、于禁は略奪していた青州兵を退治します。ところが、やられた青州兵は腹いせに曹操に嘘の報告をします。
「于禁にパワハラされました」、「于禁にセクハラされました」って感じです。
現代に通ずるものがあります。于禁の部下は「急いで曹操様の所に戻って本当のことを話しましょう」と言いました。ところが、于禁は慌てません。
「今は追ってくる張繍を食い止めることが先だ」と言って、張繍と戦って食い止めることに成功しました。青州兵から嘘の報告を聞いていた曹操ですが、もちろん于禁が青州兵を襲ったなんて信じていません。むしろ、張繍を見事に食い止めたので「さすが、于禁だ」と称賛しました。
降伏する于禁
その後も于禁は昇進を重ねていきますが、彼の名前を汚す事件が起きます。
この時の援軍として派遣されたのが、于禁と龐徳でした。ところが、出陣の時期が悪かったようです。
運悪く台風がやって来て、于禁の陣は流されました。結局、于禁は戦うことすら出来ずに関羽に降伏することになりました。
一緒に出陣した龐徳は死を選びました。降伏した于禁は荊州まで護送されました。
于禁の降伏を聞いた曹操はびっくりしました。「わしは于禁を知って30年以上だが、あいつは龐徳にも及ばなかったのか!」と驚愕しました。
于禁は同年、関羽が呉(222年~280年)に敗走すると、荊州から助け出されました。その後しばらくは、呉で生活することになります。
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于禁の最期
延康元年(220年)に曹操は亡くなり、後漢も滅亡しました。魏が建国されました。
曹操の後を継いだのは、息子の曹丕です。間もなく、于禁は魏に送り返されます。
于禁は責められずに元通りに将軍としての待遇を受けました。そんなある日、于禁は曹丕から曹操の墓の参拝を命じられました。
言われた通りにした于禁は衝撃の光景を目にします。曹操の墓には、自分の投降シーンが描かれていたのです。ショックと恥ずかしさから、于禁は病気になり、そのまま生涯を閉じました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が于禁の生涯に関しての記事でした。
于禁は立身出世を遂げていくも、最期は自分の小さなミスで転落するという「管理職」によくあるパターンです。読者の皆様も于禁の事例をもとに気を付けてください。
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