劉備の養子劉封は、元々の名を寇封と言って長沙劉氏に連なる名門でした。その家柄を見込まれて劉備の養子になりますが、劉禅が誕生した後は立場が微妙になり樊城攻めで関羽を救わなかった事を理由に自殺を命じられる事になります。
死の直前に魏に投降する事を勧めていた孟達の言葉を聞かなかった事を後悔したと言われていますが、どうして劉封は、魏に投降しなかったのでしょうか?
この記事の目次
どうして劉備の養子になったのか?
そもそもどうして劉封は、劉備の養子になったのでしょうか?劉封が劉備の養子になったのは、劉備が荊州の劉表の客将だった頃でした。その頃、劉備には跡継ぎがなく、また荊州で生きていくのに現地の地縁も必要だったので、前漢景帝の子、長沙王劉発に連なる寇氏に近づいたと考えられます。
同じような理由で諸葛孔明にも近づいた劉備ですが、荊州を乗っ取る前に曹操に荊州を奪われてしまい、劉封を養子に迎えた理由がほぼ消滅しました。
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蜀漢建国後、立場が微妙になる劉封
赤壁の戦い後、荊州南郡に地盤を得た劉備は、そこから蜀獲りに向かいます。軍師龐統を失った劉備は荊州から諸葛亮や趙雲、張飛を呼び寄せますが、劉封も一軍を率いて優れた働きをし、益州を平定した後、副軍中郎将に任命されます。しかし、この頃、劉備にはすでに劉禅という後継者が出来ていました。劉封が無能なら飼い殺しも可能かと考えたかも知れませんが、二十代と年齢も若く勇猛な劉封は劉備にとって扱いづらい存在になっていたのです。
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運命を変える男、孟達との出会い
孟達は最初、劉璋の使いとして法正を副官とし4000人で劉備を迎えさせました。しかし、最初から2人は劉備に寝返るつもりであり、劉備は孟達に命じて4000人を与え江陵に駐屯させ、蜀の平定後に孟達を宜都太守としました。
西暦219年、劉備は孟達に命じ秭帰より北方の房陵を攻めさせます。房陵太守蒯祺は孟達の兵に殺害され房陵は陥落しました。しかし孟達はさらに、上庸を攻めようとします。劉備はこのままでは、孟達のコントロールが難しくなると恐れ劉封を派遣して孟達と上庸で合流させました。上庸太守申耽は降伏し妻子および宗族を成都に派遣。劉備は申耽を歓迎して元通りの上庸太守とし、申耽の弟の申儀を西城太守とすると、劉封を移して副軍将軍としました。劉封は孟達の上官となり国境を守る事になります。
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関羽の援軍要請を無視
同時期、関羽は樊城と襄陽を囲んでいましたが戦況が厳しく劉封と孟達を呼び、兵を発して助けるよう命じていました。しかし、2人はこちらも戦争が終わったばかりで余裕がなく兵力を割けないとして命令を拒否します。ところがその後、関羽が敗死したので劉備は、援軍を送らなかった劉封と孟達を恨むようになります。
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孟達が魏に降り劉封に襲い掛かる
そんな事もあり、劉封と孟達の関係は不和となりました。ある時、劉封は孟達の鼓吹(軍楽隊)を奪い取ります、鼓吹は選ばれた将軍にしか与えられない特別待遇なので、今でいうパワハラですね。孟達は劉備に恨まれた上に劉封に害されるかも知れないと恐れ、文書で劉備に辞職願いを出すと、所領を率いて魏に降伏しました。曹丕は孟達を歓迎し房陵・上庸・西城の三郡を合わせ新城とし孟達を太守とします。
曹丕は、夏侯尚、及び徐晃を派遣して孟達と共に劉封を襲わせます。ここで孟達は劉封に対し「あなたが親孝行なのは知っているし立派だと思うけれど、蜀の内情は、必ずしもあなたの孝心を歓迎しない。古来、親孝行でも忠義の人でも、非業の死を遂げた人は少なくない。元々、あなたは長沙劉氏の出自なのですから、魏に降れば新しく長沙劉氏の始祖となる事も出来ましょう」と説得しますが、劉封は拒否します。
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成都に戻り自殺を命じられる
しかし申儀が劉封に叛くと劉封は踏みとどまる事が難しくなり成都に逃げ戻りました。劉封が成都に戻ったと知ると劉備は、劉封が孟達をパワハラして魏に走らせ、また関羽を救わなかった事を責め立てます。
この時、劉備の傍にいた諸葛亮は、劉封は勇猛であり、劉禅様が皇帝になった時には、制御が困難になるので、今困難は除いておくべきだと進言します。劉備は決意して劉封に死を賜わり自殺を命じます。劉封は、まさか死ねと命じられるとは考えなかったのか 「恨むらくは孟達の言葉を用いなかった事だ!」と言い残し自殺します。劉備は劉封の死を聞くと、とめどなく涙を流したそうです。
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劉封はどうして魏に降らなかった?
では、どうして劉封は魏に降らなかったのでしょうか?最初に思いつくのは、孟達を信じられなかったという事がありそうです。劉封自身がパワハラして魏に追いやり、そればかりか攻め込まれているわけですから投降した時点で孟達に「嘘でした~!バーカ」で殺される可能性だってあると考えたのでしょう。
もう1つは、なんだかんだ言っても劉備が自分を殺す事はないと楽観していたのかも知れません。少年時代から親子として過ごしている自分を、まさか劉備が殺すわけはない。庶民には落とされるかも知れないが、生きてはいけるだろうと思っていたかも知れません。だからこそ、劉備に自殺を命じられた時、こんな事なら孟達の言う通りにすれば良かったと悔しがったとも考えられます。
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劉備は本当に劉封を恨んでいたのか?
これも難しい所です。本当に劉備が劉封を恨んでいれば弁明にも来ないで城に籠っている劉封と孟達を放置しておくでしょうか?少なくとも成都に来て、申し開きをするように言ってきてもおかしくないと思います。
また、劉封が成都に逃げ帰った時、劉備が劉封を責めますが、その罪状には関羽を見殺しにした事と、孟達にパワハラして魏に走らせた事という2つが含まれています。これを見ると、劉備は劉封を殺したいと思うほど憎んではいなかったが、今後の事を考えると、劉封を排除せざるを得ないという思惑があるように思えます。
劉封に死を命じた後に劉備が涙を流したのも(劉封ゆるせ、仕方がないのだ…)という人知れぬ思いがあったのからではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
今回は劉封がどうして魏に降らなかったのか?について解説しました。カワウソとしては、劉封の中に孟達への不信感が強かったからというのが大きいかなと思います。自分がパワハラしたせいで魏に出奔した部下が逆襲してきて、降伏したら悪いようにはしないと言われても、そう簡単に信じられないでしょう。また、いくらなんでも少年時代から親子として接してきた劉備が、自分を殺すとは考えていなかったかも知れません。それだけに実の親と慕っていた劉備に死を命じられた時の絶望は、相当深かったと思います。
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