三国志の時代は蜀・魏・呉の順番に滅亡し、司馬家が建国した晋によって中華が統一され終わりを迎えます。
今回紹介する三国時代最後の大国・呉を滅ぼして勲功を得た王渾。彼は一体どのような人物だったのでしょうか。
魏の名将の息子
王渾は魏の政治家で、将軍として活躍した王昶の息子として誕生。王渾の父・王昶は曹丕が太子の時代から魏に仕え、曹丕が皇帝へ就任すると洛陽の典農と言われる官職を授かります。王昶は魏の明帝時代に征南将軍と荊州と豫州の軍事をつかさどる都督の位を付与されます。
時は下って孫呉が二宮の乱で江東が乱れてしまいます。王昶は孫呉が乱れている事を知ると大軍を率いて江陵へ攻撃をしかけ、魏軍を迎撃に出陣してきた孫呉の将軍を討ち取る戦果を挙げます。また王昶は文欽・毌丘倹が魏に対して反乱を起こした際、彼らの軍勢に反撃をして必死に抵抗。
王昶はこれらの功績によって司空の位に出世することになりますが、病を得て亡くなってしまうのでした。さて王昶の息子・王渾は一体どのような活躍をした人物だったのでしょう。
曹爽に仕えたせいで失職
王渾は父・王昶のように順調に出世したわけではありません。王渾は司馬懿と争って権力を得た曹爽に仕えます。だが曹爽は司馬懿との政争に敗北してしまい、殺害されてしまうと王渾も曹爽の配下だったため、官職を剥奪されクビになります。
しかし王渾は後に復職することを許されて、小さな県令の役職をもらい、職務に励んだ事がきっかけとなり、越騎校尉へ出世することになります。
孫呉平定戦で功を争うが・・・
王渾は司馬家が魏王朝から禅譲され国家を形成すると、孫呉討伐戦の司令官の一人として任命。王渾は孫呉の首都建業を目指して軍勢を進めていき、孫呉の丞相・張悌率いる軍勢を打ち破って張悌を討ち取る大功績を挙げます。
しかし王渾率いる軍勢に負けないくらい呉軍を打ち破って、功績を挙げ続けていた将軍がいました。その将軍の名前は王濬と言います。
彼は益州から超巨大戦艦を率いて長江を下り、次々と孫呉の軍勢を打ち破って功績を挙げ続けていました。更に王濬はそのままの破竹の勢いで、孫呉の首都・建業へ向かって進軍。
王渾は王濬が建業攻略に向かっている事を知ると「全軍の足並みを揃えてから建業攻略へ向かった方がいい」と王濬の軍勢をストップするよう命令を出します。王濬は王渾からの命令を受けて「船の風向きが良く、このまま進軍を継続します」と言って王渾の命令を拒否。
王濬はそのまま建業まで進軍して、ついに孫呉の皇帝・孫晧を捕えてしまいます。
悪口マシーン・王渾
王渾は自分の命令を聞かないで勝手に建業へ攻め込んで、孫晧を捕えた王濬に激怒。王渾は晋の皇帝・司馬炎へ「王濬は私の命令を無視して、建業を陥落させ、孫晧を捕えました。軍令を無視し、秩序を乱した王濬のやり方はおかしいと思います。」と何度も訴えます。
司馬炎は王渾の訴えを取り上げることをしませんでしたが、王濬の勲功と王渾の勲功を同列に扱い、二人に同等の褒美を与えます。王渾は孫呉平定の勲功第一にしてもらったことで、留飲を下げ、王濬に対する怒りを鎮めます。
その後王渾は司空などの重職を歴任し、晋の恵帝の時代になると丞相の位を付与されることになり、晋の時代に栄華を極めたと言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
王渾は孫呉討伐で功績を挙げた将軍ですが、彼の息子達も非常に優秀な人材でした。例えば王渾の息子・王済は九卿の一つである太僕にまで出世。
また王渾の弟・王深は冀州刺史まで出世し、彼の息子達もまたそれぞれ優秀な人材として、晋王朝を支えていきます。このように王昶、王渾、王渾の息子、孫たちすべてが歴史名前を残し、栄華を極めた一族と言えるでしょう。
■参考文献 正史三国志魏書など
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