諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の北伐は都合五回にも渡りました。
しかし、孔明が北伐でどのように戦っていたのかを示すような資料は殆どありません。
大半は、史書による人物の動きから推測するしかないのですが、
今回、はじさんでは、孔明の戦い方に関する面白い仮説を思い付きました。
これが正解!というわけではモチロンないのですが、司馬懿(しばい)が
「天下の奇才」と舌を巻いた孔明の戦術について、ここで紹介してみましょう。
この記事の目次
李厳を弾劾する書に出てくる多くの孔明の幕僚の共通点
さて、北伐で諸葛亮孔明が、どのように戦っていたのかについて、
それを推測させる資料が、李厳(りげん:当時は李平:りへい)を弾劾する書という
成都の劉禅に宛てた上奏文から出てきます。
この事件は、西暦231年、第四次北伐で補給を担当した李厳が
長雨で補給が続かないと前線の孔明に報告した所、孔明が北伐を断念して退却、
しかし、自分のせいで北伐が失敗したと思われるのを恐れた李厳は、
成都に虚偽報告をして、責任を孔明になすりつけようとしたものです。
孔明は、李厳の態度に怒り、北伐メンバーと協議して李厳から、
官職と爵位を剥いで庶民に落とすように劉禅に上奏しますが、
そこには、北伐メンバーの役職と爵位が明記されていました。
北伐メンバーの役職の奇妙な共通点・・
そこには、以下のような文官・武官と役職が並んでいました。
・中軍師 劉琰(りゅうたん)、前軍師 魏延(ぎえん)、
・督前部 高翔(こうしょう)督後部 呉班(ごはん)督左部 鄧芝(とうし)
・中護軍 費禕(ひい) 前護軍 許允(きょじゅう)
左護軍 丁咸(ていかん) 右護軍 劉敏(りゅうびん)
・護軍 姜維(きょうい)
・前監軍 劉巴(りゅうは) 中典軍 上官雝(じょうかんよう)
中参軍 胡済(こさい)
頭文字と前後左右中という文字が共通している
赤の太字をじっと見ていると気がつきますが、
それぞれのグループは、頭文字が軍師なら軍師、督なら督、
護なら護、後は監、典、参というような文字で統一され、
後は前後左右中という位置を示す言葉で締められていますね。
中国では、古代から前後左右中軍という表記があった。
古来より中国には、天子の軍勢を守る為に前後左右中という
五軍が配置されているのを見る事が出来ます。
将軍号としてもお馴染みの前後左右将軍というのも、本来は、
天子の軍勢の前後左右を守る将軍に与えられたのが由来なのです。
そこからは、これらの北伐軍の呼称が、孔明の本陣を守る為に
造られた独立した軍勢であるかも知れないという推測が出来ます。
全部で13ある北伐軍の部隊は、孔明の本隊とは別に独自の動きをする
遊撃隊の役割を負っていたのではないでしょうか?
前漢の西域都護から考える、蜀の独立部隊
実は、北伐軍にある護軍という名称は前漢時代の西域駐屯軍にもあります。
それを西域都護といい、映画ドラゴンブレイドでも、ジャッキーが主演した
漢の西域警備隊の霍安(フォ・アン)がついていた漢の役職です。
本来の階級は西域都尉で官秩比二千石なんですが、小さいながらも
幕府を開き、副官として副校尉と丞(補佐)一名、司馬二名、
侯二名、千人二名が付属していました。
兵力は多くて五千名位で、これで西域三十六国を支配していたんですから
いかに西域諸国の規模が小さいとはいえ、大したものです。
これは、ただの推測ですが、孔明は、この西域都護をモデルに、
小さいながらも幕府を持ち、独立して戦える護軍を設置したのでは?
などと考えてしまうのです。
狭い秦嶺山脈周辺の戦いでは、大部隊より少数部隊が有利
実際に、蜀と魏の主な主戦場になった秦嶺山脈は、狭い桟道が多く、
大部隊が展開しにくい場所ですから、孔明がそれを逆手にとり、
多くの部隊をアメーバのように配置して魏軍を足止めしたと考える方が
より自然であるように思えてしまいます。
孔明の本隊とは別に、不気味にうごめいている少数の独立部隊は、
魏軍に少なからぬ重圧を与えたでしょう。
いつものようにはじさん手作り 組織図で説明!
文字だけでは分かりにくいので、ここでいつもの、はじさんの手作り地図です。
このように、孔明の組織した少数部隊は、数千程度の規模で頭文字を
持つ部隊と協力しあいながら、動いていたと思われます。
そして、これらの少数部隊は決して自分勝手に動いたわけではなく、
本陣の孔明の指示により、かなり統一感を持って動いたと思われます。
それを可能にしたのが、上奏文にも登場する、
行参軍 閻晏(えんあん)、爨習(さんしゅう)杜義(とぎ)、
杜祺(とき)、盛勃(せいぼつ)、という5名です。
参軍は参謀のようなものなので、彼等は常時、孔明の側にいて、
孔明がイメージする戦略図を頭に叩き込んで、独立部隊に伝達していた
そういう事ではないかと思います。
三国志ライターkawausoの独り言
孔明は、独創性がある武将より、自分の意図を忠実に理解できる
優等生タイプの武将を好む傾向がありました。
馬謖などもそうだったと思うのですが、孔明は部下を手足として扱い
自身は頭脳として、細かく分離した独立部隊を意のままに操る
蜘蛛のような戦い方を得意としていたのではないかと思います。
独立部隊は、あくまでも手足であり頭脳を持たず、ただ孔明の指示に
従って、一つの生命のように自在に動きまわる、
孔明の理想の戦術とはそういうものだったのかも知れません。
本日も三国志の話題をご馳走様でした・・
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