さて今回は熟達した三国志通の皆様たちのお相手ではなく、それよりもっと柔らかくのど越し良く。そう例えば「三国志に興味があるんだけどもう何が何やら……」という方々に向けてのお話になります。
こういう方々は貴重です、新たに沼にどぼーんとしちゃう方々を逃がしてはなりません。なのでじっくりと、どんな小さな疑問でも解消していこうではありませんか。
と、いうことで今回はたまに迷っておられる「諸葛亮と諸葛孔明……ってドウイウコト?何か違いがあるの?」という、多くの人が知っている諸葛亮についての疑問と名前と、それらについて説明していこうと思います。
この記事の目次
諸葛亮と諸葛孔明って同一人物ですか?
はい、まずはこちらですが、間違いなく同一人物です。三国志の沼に浸かるとあるあるなのですが、まず引っかかるのが名前です。
正史三国志、そして三国志演義、更にはそれらを題材として取り扱った作品など……見ていくと、名前が似ている人が多くいるのがポイント。
その上、諸葛亮と諸葛孔明というように所謂「表記のブレ」が各所に存在してしまうため、誰が誰やら分からなくなってきてしまうのは良くあること。
なのでとりあえず、諸葛亮と諸葛孔明はほぼ間違いなく同一人物である、同一人物として取り扱った名の表記であることは、ここに明言しておきましょう。
諸葛亮孔明は、どれが苗字で、どれが名前なんですか?
次に触れたいのは、苗字と名前について。一般的に、苗字は家としての名称で姓、名前はその人個人の名称で、名となり、二つで姓名です。これは日本人でも同じなので分かりやすいですね。
その観点で見ていくと「諸葛亮孔明」の文字は
諸葛=苗字
亮=名前
となります。そしてここで恐らく「じゃあ孔明ってなんぞ」という疑問が湧いてきているでしょう。この「孔明」というのは、字というのが、少しややこしい所なのです。
諸葛孔明のあざな
字、あざなの言葉が出てきたところで、この字について説明していきましょう。字というのは、昔、中国で成人した男性、及び女性が名乗る名前のことです。これは親から頂いた実名を敬って避けるという慣習があったため、これを他人に呼ばれることを避けるためでもありました。
このため、親や主君でもなければ姓と名では呼ばず、姓と字の組み合わせで呼んだのです。なので諸葛亮は、諸葛孔明、とも呼ばれるのですね。
諸葛亮孔明の正式名称は?
では、諸葛亮孔明の正式名称は?となると、一般的な、そして敬いを込めて呼ぶとするならば諸葛孔明、というのが正しいでしょう。
ただし諸葛亮よりも上の立場である存在、例えば君主である劉備ならば「諸葛亮」と呼ぶことは何ら問題ではありません。また更に付け加えるならば、諸葛亮を敬わない、例えば敵側の存在であるならば諸葛亮、と呼ぶことも間違ってはいないとは言えます。
孔明の敵は誰ですか?
そこでこちらの疑問についても、お答えしましょう。まず諸葛亮の敵……個人で言うと、よく司馬懿が挙げられているでしょうか。ですが正史三国志において、諸葛亮と司馬懿が直接戦をしたことは殆どありません。
とは言え最期の五丈原の戦いで熱い戦いを繰り広げているのは間違いないでしょう。しかし諸葛亮の最大の敵というなら、やはり魏という大国そのものです。
またそこに蜀という国の命運が尽きるまで、ということを加味するなら、ある意味で蜀もまた彼の庇護するべき敵である、とも言えるのではないでしょうか。
どうしても敵というと一個人に集中してしまいますが、筆者の個人的な意見では諸葛亮の敵というのは「国」という存在を挙げる所だと思いますね。
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孔明と諸葛亮の違いは何ですか?
そして孔明と諸葛亮の違いについてもここで述べておきましょう。説明したように、孔明とは字であり、諸葛亮というのは姓と名です。これは両方とも諸葛亮という存在を表す言葉ですね。
ただ表記の関係上、諸葛亮孔明、というのは名と、名を使わない、呼ばないために名乗っている字が両方使われているので、こちらの表現はおかしい、ということになります。違いはないけれど、標記の件では気を付けなければならない所ですが、漫画なのでどうにも認知されてしまい、勘違いが起こりやすいのでご注意ください。
諸葛亮と諸葛孔明はどっち?
さてここまでご説明してきたので、おおよそのくくりはご理解して頂けたかと思います。諸葛亮、そして諸葛孔明、どちらも表現としておかしいことではありません。ただ礼節を持って当たるというなら、諸葛孔明の方が好ましいということになります。
ですが現代において、諸葛亮と呼ぶことでその対象に敬意を持ってない、と断言することにはなりません。そうでないと立場によって呼ばれ方が変わるため、文章の中で何度も諸葛亮と諸葛孔明が入り乱れて余計読みにくく、分かりにくくなることもあるからです。
個人の見解ですが、あまり堅苦しく考えずに「ここではこの表記なんだな」くらいの柔らかさで話を楽しむことをおススメしたいですね。
三国志ライター センのひとりごと
個人的には諸葛亮は諸葛亮表記で使用することが多い筆者です。これには文字数の関係もあるので、決して諸葛亮への敬意が薄いという訳ではありません。それは多くの方々が同じではないかと思います。
もちろん「正しく書く」ということが重要である場合は別としても、そこが目的でないならば「そこ」に拘らなくてもよい、と感じる派ですね。
表記の正しさ重視か、歴史自身を知ることが重要なのか、ただそこにいた人々に思いを馳せたいのか。その場その場で、フレキシブルにいきたいと思います。どぼん。
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