徐晃は曹操が信頼したと言われる5人の将軍(三国志演義では五大将軍)の1人で、張遼と共に劉備の配下だった関羽と親しい関係にあった人物と言われています。
しかし、樊城の戦いにおいて関羽軍を破り、敗走した関羽が孫権軍によって殺されるきっかけを作ったのも友人であった徐晃です。ただ、曹操が下した樊城の救援命令は徐晃だけではなく、張遼にも渡っていました。
ではなぜ、最後に関羽と対峙したのが徐晃だったのでしょうか。実はこれには徐晃の行動が曹操の意図とはズレた暴走だった可能性があるのです。今回はそんな徐晃暴走説について掘り下げていこうと思います。
この記事の目次
関羽、徐晃、張遼の関係性
徐晃は古くは車騎将軍であった楊奉に従っていた人物で、曹操が献帝を奉戴した頃に曹操軍へ帰順しました。
その後、呂布を破った曹操は張遼も幕僚に加え、劉備が反旗を翻した際に関羽も降伏させています。こうして3人は一時ではありますが、幕僚として生活をしていました。
友人関係となった背景には、徐晃と関羽は同じ河東郡の出身という共通点があり、張遼と関羽は呂布と劉備が共に徐州にいた時から親交があった可能性があります。
ただ、張遼の方が付き合いは長かったからか、曹操は白馬への出陣命令を出した際に関羽と張遼の2人を先鋒としていますし、曹操が関羽の胸の内を知るために派遣したのも張遼でした。
徐晃と張遼の樊城救援作戦
それから時が流れ、関羽が曹操領の樊城と襄陽を攻めた際、曹操はその対抗策として徐晃と張遼に対して曹仁の救援を命令しています。
徐晃はもともと曹操と共に漢中の戦いに従軍していて、救援命令が出る前は陽平で劉備軍と交戦していました。そのため、兵は傷ついていましたし、補充されたのも新兵が多く単独での救援は難しい状態です。
それに対して張遼は合肥で孫権軍に備えていたことから兵力も十分にあり、比較的すぐに救援ができた状態であったと予想できます。曹操が命を発したのは徐晃が先で、張遼は少し経過した後であったと正史からは読み取れますが、距離的にも比較的近い場所にいた張遼が樊城や襄陽の城へと至ることはありませんでした。
張遼は関羽に情けをかけたのか?
張遼は曹操からの命令を受けてからも比較的ゆっくりと行動をしているようで、すぐに戦場へ救援に行くような素振りは見せていません。張遼は君主の命令よりも友情を選んでしまったのかと考えてしまいますが、むしろその逆です。
正史の「傅士」には、張遼はかつて関羽が曹操のもとに長く留まるつもりは無いと言ったことを曹操に報告すべきか迷ったエピソードが書かれています。
関羽がいずれ劉備の元へ帰るのであれば禍根を絶つという意味合いで、曹操は関羽を殺すだろうと悩んだのですが、張遼は「君主である曹操は父であり、関羽は兄弟なので優先すべきは父である」として君主への忠義を優先しました。
つまり、情に流されてノロノロと行動をしていたわけではなく、そこには曹操の作戦があったと考えるべきでしょう。
のろのろ行動した張遼をねぎらう曹操
樊城の戦いも後半に差し掛かった頃、曹操は自らも出兵し、摩陂という場所で張遼と合流しています。その際に曹操は自ら張遼を出迎えてその労をねぎらいました。ただ、張遼は戦功を上げたわけではありません。
それ以前に徐晃が関羽軍を破って包囲が解けているようなので、曹操が安堵していた可能性はありますが、それにしても曹操の行動は妙だと言えるでしょう。つまり、張遼は曹操に褒められるに値する行動をしたという意味で、それは恐らくゆっくりと行動をしていたことと関わりがあります。裏を返せば即行動して関羽の包囲を破った徐晃の行動こそ曹操にとって計算外の事態だったのです。
ではここからは曹操が立てた真の計画とは何だったのか考察をしていきましょう。
曹操は孫権を囮にするつもりだった
曹操は樊城と襄陽を救援するにあたり、漢中での消耗もあることから関羽との直接対決はできるだけ避けたかったはず。ひとまず徐晃を宛に派遣して兵を補充させ、その上で牽制をさせる予定でした。
ただ、関羽に恐れをなしていた曹操はうっかり遷都を口走り、そこで蒋済や司馬懿が孫権を利用する作戦を提案されます。曹操はこれを採用すると同時に火中の栗を孫権に拾わせるプラスαの策を考えました。
それは孫権を囮にするというもの。関羽と戦って損害を出したくないのは孫権も同じなので、呂蒙の代わりに陸遜を派遣して油断をさせるなど秘密裏に動いていたわけですが、曹操は孫権軍の動向を関羽側に流そうとしたのです。
そうなれば関羽は包囲を解いて南へと戻っていくので、無傷で城を救援できます。ついでに孫権との同盟で防備が不要となった合肥から張遼を呼び寄せ、徐晃も包囲の近くに配置することで、樊城や襄陽を攻略するのは容易ではないと関羽に無言のプレッシャーをかける目的がありました。
徐晃の躍進は曹操にとっての嬉しい誤算
そのため、曹操としては救援には向かってほしいが、戦闘は始めてほしくなかったわけです。恐らく曹操はそのあたりの詳細を伝えないまま命令を発し、張遼はそれを汲み取って行動したので労をねぎらわれたと考えられます。
徐晃に対しては援軍の到着を待ってから一斉に攻めるようにと命令を下していたわけですが、徐晃は着陣早々に敵の背後を攻める素振りを見せるなど独自に行動を起こします。ただ、それが功を奏して敵は逃走。関羽の包囲陣にも迫ったことで、曹操は作戦を変えて徐晃に追加の援軍を送りました。
結果的に徐晃は関羽軍を完全に敗走させ、城の救援にも成功しました。その後、曹操が徐晃をこれでもかという程に称賛しているのは、曹操にとって嬉しい誤算が起きたからであると筆者は考えます。
三国志ライターTKのひとりごと
徐晃は最後に関羽と対峙した際に遠巻きに雑談をしたと言われていますが、最後は「関羽の首を獲ったら大きな報奨が得られる」と兵を焚き付け戦闘を始めています。
徐晃もまた張遼、関羽と同様に義理よりも君主との忠誠を大切にした人物でした。友人に負かされて死を迎えるというのはポジティブな話ではありませんが、同じ志を持つ人物に敗れたというのは関羽にとって不幸中の幸いだったのかもしれません。
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