人材をゲットすることに情熱を傾けた彼は強国・魏の礎をつくり上げました。
しかし、ただただ「うちに来ない?」と誰彼構わずスカウトし続けるだけでは本当に欲しい人材というものは手に入りません。
曹操があれほど素晴らしい人材を集められたのはひとえに彼が「ヨイショ」上手だったから。
では、曹操の「ヨイショ」の手腕はいかほどのものだったのでしょうか?
典韋の戦いっぷりをヨイショ!
正史『三国志』でもその怪力ぶりを知られる典韋。
彼は『三国志演義』で曹操にその怪力ぶりをなんとも絶妙な言葉で称賛されています。
夏侯惇に見出されて曹操に仕えることになった典韋は、黄巾賊の残党狩りに励んでいました。
典韋が黄巾賊の頭目の1人であった何儀を捕えようと追いかけていたところ、なんと1人の農民ルックの大男が乱入。
その農民はなんと許褚。
許褚が横から何儀を掻っ攫っていったものだから典韋は怒髪天を突く勢いで怒り狂い、許褚に襲い掛かって激しい一騎打ちを演じました。
典韋の戦いの凄まじさを見た曹操は「かの有名な悪来のようだ」と大絶賛。
「悪来」とはあの悪名高い殷の紂王に仕えたこれまた性格が悪すぎる人物でした。
しかし、その性格の悪さをカバーする剛力で宮廷内に君臨していたそうな。
昏君の悪臣にたとえられるなんて典韋にとってはあまり嬉しいことではなかったかもしれませんが、
このたとえを用いることで曹操=紂王の図式も同時に成り立つわけですからちょっぴりスパイスが効いていて面白い表現だといえますね。
曹操の誉め言葉には他には無い妙味があります。
荀彧に期待を込めてヨイショ!
荀子の子孫であるといわれる荀彧はもともと袁紹に仕えていました。
荀彧の才能は袁紹にも高く買われ、袁紹に上賓の礼で迎えられて大切にされていたのですが、荀彧は袁紹が天下の大事を
成し遂げられるような器ではないと見抜いていました。
「いつ袁紹の元を離れようかな~誰かいないかな~」
と悩んでいた荀彧の目に留まったのが袁紹から東郡太守に任命された曹操でした。
荀彧はさっそく曹操のもとへ赴き、曹操に仕えたいと申し出ました。
すると曹操は少し言葉を交わしただけの荀彧のことを「我が子房を得た!」と称えて大いに喜んだと言います。
「子房」というのは前漢の高祖・劉邦を支えた名軍師の字。
曹操は荀彧を漢の立役者になぞらえて荀彧への称賛と期待を最大級に表現したのですね。
郭嘉の奇才ぶりをヨイショ!
袁紹に仕えようと思ったもののその器の小ささに失望して家に帰ってニートをしていた郭嘉。
そんな郭嘉に荀彧から「曹操さまに仕えないか?」とスカウトの声がかかります。
さっそく曹操のもとを訪れた郭嘉は、今まで受けたことのない賛辞を受けることに。
「私の大業を成就させてくれるのは必ずやこの者だ!」
と曹操はヨイショにヨイショを重ねました。
歓待された郭嘉も
「曹操さまこそ私にとっての真の主君だ!」
と大喜び。
しかし、曹操の期待に応えて様々な活躍を見せた郭嘉は若くして亡くなってしまいます。
曹操はその死を嘆きに嘆き、
「郭嘉だけが飛びぬけて若かったのに…。
天下泰平の夢が成就したならば、郭嘉に全てを託すつもりだったのに…。」
とシクシクメソメソ。
その後赤壁の戦いで大敗を喫した際にも
「郭嘉がいてくれたら、こんな無様な負け方はしなかったのに…」
とシクシクメソメソ。
死してなお
曹操に称えられ続けるなんて
本当に郭嘉が羨ましい限りですね。
長所を見つけるその力はおじいちゃん譲り
曹操が人の長所を見出し、その長所を惜しみなく称えるのは、祖父である曹騰の影響があったに違いありません。
祖父といっても曹騰は宦官で血こそ繋がっていませんが、曹騰が宦官でありながら養子を得るきっかけになった人材を見出す能力は
きっと曹操に教え伝えられていたことでしょう。
偉大な祖父であった曹騰がいたからこそ、曹操は魏という大国の礎をつくり上げることができたのでしょうね。
三国志ライターchopsticksの独り言
人の長所を見つけるということは人を選び抜く立場にある人はもちろん、普段の人間関係を円滑に営むためにも大切なスキルだと思います。
私たちも曹操を見習って人の長所を見つけられるようになりたいものですね。
▼こちらもどうぞ