曹丕は魏(220年~265年)の初代皇帝です。文帝とも言われていますが、曹丕が有名なのでこの記事では曹丕で通します。
曹丕は性格が悪いと言われています。
しかしそれは、『三国志演義』やゲームの創作です。
実際の曹丕は優しくて、またユニークな一面も持っています。
そこで今回は史実の曹丕の性格について紹介します。
お兄さんの敵討ちをする曹丕
建安2年(197年)に曹操は張繍を攻めますが、張繍はあっさりと降伏しました。
一兵も損なわなかったので、曹操はほっとしました。
ところが、これは張繍の罠でした。張繍は曹操が油断しているところを襲撃しました。
この戦で曹操の長子の曹昴と甥の曹安民、部下の典韋を失いました。
とくに曹昴は曹操を逃がすために、自身の馬まで譲って戦死するという最期でした。曹操にとっては苦い敗戦となりました。
張繍はその後も曹操を苦しめますが、建安5年(200年)に自ら降伏しました。
今度の降伏は本当でした。曹操は昔の恨みは忘れて、張繍に自分の娘を嫁がせて手厚くもてなしました。
しかし、許さなかったのは曹丕でした。
ある日、張繍は頼み事があって曹丕に会いに行きました。すると、曹丕は「お前は私の兄を殺したのになぜ会える!」と激怒したのです。
曹丕からの報復を恐れた張繍は、精神的に参ってしまい自殺に追い込まれました。
曹丕と戦死した曹昴は腹違いの兄弟です。
だが、ここまで激怒するとは曹丕にとってはよいお兄さんだったのでしょう。
型破りな性格をしていた曹丕
曹丕は型破りな性格もあったようです。その典型的な逸話を紹介します。
曹丕が皇太子時代の話です。ただし、正確な時期は不明です。
部下と一緒に酒を飲んで楽しんでいる時に曹丕は突然、「みんなに挨拶をしろ」とある人物を呼びました。
それは曹丕の妻の甄夫人でした。
現代人の感覚では信じられないかもしれませんが、昔の中国では妻を人前に出すなんてとんでもないことだったのです。
簡単に言えば、全裸で出すのと一緒の感覚です。
「晃、不謹慎な発言があったから。お前は謝罪とお詫びをしろ!」
いや、読者の皆さんはそう思うかもしれませんけど、これは本当なんです。
この時、周囲のほとんどの部下が「キャー!」と目を伏せたのです。
将来の皇后を勝手に見るわけにはいきませんから。
ただし、劉禎という人だけが見ていたらしいです。
この話を聞いた曹操は大変激怒して、劉禎を肉体労働の刑にしたそうです。
なぜ、曹丕がこんな事をしたのかと言いますと、曹丕は昔からの慣習が好きではなかったようです。
だから、平気な顔で破ったらしいです。
冷静に物事を見つめる曹丕
建安13年(208年)に異母弟の曹沖がわずか13歳で亡くなりました。
曹操は息子の中で曹冲を可愛がっていました。
亡くなった時も、曹丕に向かって「わしにとっては悲しいがお前にとっては嬉しいだろう」ときついことを言いました。
その後、曹操は亡くなり曹丕が皇帝になりました。
皇帝になった曹丕は後に語っていました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)
「曹昴は皇帝になるには限界があった。しかし、曹冲が生きていたら今の私はいなかった」
先述したように曹昴は曹丕が好いていた兄でした。だが、皇帝の器という点では曹丕は疑問視していたようです。やはり優しいという点ではトップに向かないとみていたのでしょう。
その点、曹冲は自分には無い何かがあると曹丕は見ていたのかもしれません。
三国志ライター 晃の独り言
以上が曹丕の性格に関しての記事でした。
曹丕が冷酷という最大の原因は弟の曹植との対立でしょう。
しかし、これも『三国志演義』の創作が多いのです。
詳細はいつか書こうと思います。
※参考
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)』2000年に改題)
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